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終戦から75回目の夏 戦争体験を次世代に

2020.08.7

父の遺影を抱く宏一さん(左)と空母「雲龍」の油絵

糸島新聞の100年以上にわたる歴史の中には、1941(昭和16)年から45(昭和20)年まで、太平洋戦争勃発前の言論統制の厳格化から、新聞が発行できなかった期間が含まれている。67年から70年にかけて連載された「いとしま五十年」では、〝空白の4年間〟を埋めるべく、戦時中に糸島で起こったことを詳細に掲載している。

悲惨な戦争を二度と繰り返さないために、糸島新聞ではこれまでも、戦争の記憶と記録を後世に伝えてきた。8月15日、75回目の終戦の日を迎えるのを前に、今年も糸島の戦争体験者や戦死者の遺族の声に耳を傾けた。

 父への思い、後世に 二丈・古賀宏一さん

 糸島市遺族会の事務局長、古賀宏一さん(75)=同市二丈田中=の父、新海吉行さん(享年32)は75年前、旧海軍の空母「雲龍」(17840㌧)に機関科下士官として乗船していた。
搭載すべき飛行機の代わりに、「人間爆弾」とも呼ばれた「桜花」など特攻兵器と兵力を積んだ雲龍は1944(昭和19)年12月19日、目的地のマニラに向かう途中で米潜水艦の魚雷攻撃に遭い、東シナ海で沈没。吉行さんを含む乗組員や海陸軍人ら約3千人が死亡した。

 当時、生まれてまだ2カ月だった宏一さん。成長するにつれ、「写真でしか顔を知らなかった父は、どこでどんな最後を遂げたのか。できることなら、遺品のひとつでも海の底から引き揚げて、弔いたい」との思いを募らせた。

 高校卒業後、漁業関係の会社に勤めていた宏一さんは、防衛庁(当時)の資料と、仕事仲間の「沈没船のために底引き網が入れられない場所がある」という話を照らし合わせ、自力で雲龍の沈没位置を特定。

 宏一さんの西日本新聞への投稿がきっかけとなり、1985(昭和60)年、福岡市の県護国神社に雲龍の遺族、生存者ら約100人が集まり、合同慰霊祭を開いた。沈没の悲劇から、41年が経っていた。

 これをきっかけに、「航空母艦雲龍会」が発足。翌86年からは、命日(12月19日)やその近い日に、雲龍の母港であった長崎県佐世保市の佐世保海軍墓地で慰霊祭を開催。87年には宏一さんらの働きかけが実り、同墓地に慰霊碑を建立。同年、雲龍の100分の1模型を海上自衛隊佐世保防衛資料館に寄贈した。

 慰霊碑には、「一度でよいから、あなたに貰(もら)ったこの眼にあなたの姿をしっかりと焼き付けておきたかった…」で始まる、宏一さんが書いた「父への手紙」の文章が刻まれている。慰霊祭は昨年、35回目を迎えたが、今年は新型コロナウイルスの影響で、中止を検討しているという。

 宏一さんと妻多世子さん(76)は、慰霊碑を掃除するために月に2回、佐世保海軍墓地に通ってきた。宏一さんが体調面の不安から昨年、運転免許証を返納してからは、長男の宏隆さん(50)が運転する車で月に1回、墓地を訪れ、慰霊碑の清掃を続けている。

 4、5年前からは、地元の一貴山小にゲストティーチャーとして招かれ、「戦争は絶対にしてはいけない。それだけはみんなの胸に刻んでおいて」と、子どもたちに語って聞かせている。

 「雲龍会のことは、私が死ぬまで止められない」と常々話している宏一さんは、「遺族が高齢化し、後継者も少なくなっているのが課題だが、肉親を失った私たちの苦労と悲しみを後世に伝え、二度と悲惨な戦争を繰り返さないようにしなければ」と語った。

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