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■三雲・井原遺跡の報告書が完成
前原市教委はこのほど、同市の「三雲・井原遺跡」の発掘成果を報告書にまとめた。

県道の拡幅工事に伴い、南北約840m、幅約4mの範囲を2004年5月から約10カ月かけて発掘調査した。
調査範囲は三雲下西、三雲中川屋敷、三雲七夕など15の
遺跡にまたがり、うち井原ヤリミゾ遺跡からは弥生時代後期の墓域が検出。

3基の木棺墓から方格規矩(きく)四神鏡1枚と内行花文鏡
2枚分の破片が見つかり、7000個以上のガラス小玉などが
出土した。

被葬者は、貴重な鏡を副葬された王に近い人物とも考えられることから、「幻(まぼろし)の伊都国王墓」といわれる「井原鑓溝王墓」が近くに存在する可能性が高まり、新聞紙面をにぎわせた。

江戸時代の国学者青柳種信は著書「柳園古器略考」で、天明年間(1781―88)に怡土郡井原村の「鑓溝という溝」にあったつぼの中から約20枚の銅鏡が見つかったと記し、鏡片の拓本を残した。豪華な副葬品から王墓とみられているが、遺跡の正確な位置が分からず、「幻の王墓」となっている。

報告書は、「総括」で井原ヤリミゾ遺跡の葬送儀礼や墓域の時期的変遷などについて記述。

「『鏡+玉類』『鏡のみ』『玉類のみ』『副葬品をもたないもの』と同一墓域内でも副葬品の格差が見られた」「鏡・玉類の供献や高い副葬率は、これらの被葬者が特定家族墓または中心被葬者に対するエリート家族と考えられ、副葬品の格差は、その内部により生じた複雑な階層差を反映していると考えられる」とする。

また方格規矩鏡の年代観から「今回の墓群が井原鑓溝王墓と重層的関連をもつ可能性が高い」と締めくくっており、同市教委では「近隣地に井原鑓溝王墓があるのではないかという推測ができるようになった」と発掘成果について語っている。  

「三雲・井原遺跡」報告書は本文170ページ、図版44㌻の計214ページ。7月から同市井原の伊都国歴史博物館と同市前原東の市図書館(ぱぴるす館)、市役所の情報公開コーナーで閲覧することができる。
■平原王墓出土品 国宝指定記念式典
国内最大の銅鏡「内行花文鏡」(46.5センチ)など、前原市有田の「平原遺跡」1号墓出土品が一括して国宝に指定されたことを受け、前原市教委は24日、同市井原の伊都国歴史博物館で記念式典を開いた。

記念式典では、同博物館の西谷正館長が「伊都国の国宝が意味するもの」のタイトルで講演。

「市が進める国宝の里づくりについて、『伊都国ルネサンス』というキーワードを提案したい。
いろんな立場の人が一緒になって2000年前の伊都国のことを掘り起こすルネサンス運動を展開し、新しいまちづくりに生かせないか」と話した。
■69年ぶりの報告書 国指定史跡「怡土城跡」
 前原市と福岡市の境にある高祖山に築かれていた国指定史跡「怡土城跡」の報告書が、前原市教育委員会から発行されている。本格的な報告書としては、1936年の九州帝国大学(現九州大学)の調査をまとめ、翌37年に日本古文化研究所が刊行した報告書以来、69年ぶり。

 怡土城は、奈良時代の756年から768年まで、約12年かけて高祖山(416㍍)の西側斜面一帯に築かれた山城で、当時の国家プロジェクトとして、遣唐使としても有名な吉備真備(途中で佐伯今毛人に交代)が築城を指揮した。

 怡土城が築城された理由について報告書では、日本(倭)と朝鮮半島の新羅の関係が8世紀に入って悪化したことを有力な説として挙げ、758年には新羅征討計画が発議されるまでになった時代背景から「このような状況の中で築城されたのが 『怡土城』である」 としている。

 報告書では、1972年からの発掘調査結果のうち、城郭北西端部に位置する第5望楼(ぼうろう=物見やぐら)や縣庄(けんしょう)礎石群、大門遺跡の土塁の構造など、怡土城に関連する6遺跡について、遺構や出土した遺物の実測図などを使い、詳細に説明している。

 報告書はA4判で、巻頭カラー8ページ、本文110ページ、図版24ページの合計142ページ。限定300部を伊都国歴史博物館と前原市役所文化課で販売している。 税込1200円。
■連載 大鏡が映した世界

 私たちの祖先は2000年以上の長きにわたり、鏡と深くかかわってきました。鏡とは本来、顔を映し、身なりを整える道具。しかし、日本人は鏡の奥の隠れた世界に引かれ、ある時は恐れ、喜び、または願い、心のよりどころとしてきました。

 伊都国歴史博物館で10月7日から11月19日まで開かれる国宝指定記念特別展「大鏡が映した世界」では、私たちの祖先が銅鏡とどのように出合い、受け入れ、そして利用していったのか、弥生時代から古墳時代の銅鏡を通し、その実態について考えます。(伊都国歴史博物館・岡部裕俊)

①倭人が初めて手にした銅鏡

   多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡
                  直径10.3㎝
宇木汲田(うきくんでん)遺跡(唐津市)
             弥生時代中期前半

 弥生時代、北部九州の人々が「倭人」と呼ばれていたころ、朝鮮半島から玄界灘を越えて初めて伝えられたのが多鈕細文鏡です。鏡背にひもを通すための穴が複数あり、その周りを繊細な幾何学文様で飾られているのが特徴です。

 出土数は少なく、北部九州では8面が出土し、そのうち五面を展示します。

 これほど多くの多鈕細文鏡が一堂に会するのは初めてのこと。まだ伊都国からは出土していませんが、出土が期待される銅鏡です。


②百余国の形成と銅鏡

          連弧文「日光」銘鏡
                 直径6.9cm
            田島遺跡(唐津市)
         佐賀県指定重要文化財

 今から2000年ほど前のわが国の情勢を伝えた中国の歴史書には、100余りの小さな国々が生まれていたことが記されています。ちょうど弥生時代も半ばごろのこと。

 北部九州の遺跡から発見されている副葬品を納めた墓はこのことを裏付けています。

 青銅製武器、 装身具とともに副葬品の中心であったのが中国製の銅鏡。 しかし、 出土鏡の多くは直径7㌢に満たないまさにコンパクトサイズの鏡が中心でした。


③伊都国王の銅鏡

弥生時代屈指の大鏡だった
   重圏彩画(じゅうけんさいが)鏡
                 直径27.3cm
        三雲南小路王墓(前原市)
          福岡県指定重要文化財

 北部九州で小国が数多く誕生した弥生時代中ごろ(約2000年前)。すでに糸島には強大な力を持った国が存在していました。

それが 「伊都国」 です。

 伊都国王は力の証しとされる銅鏡を大量に保有するだけでなく、当時としては破格の大鏡を手に入れていました。

 伊都国最古の王墓である三雲南小路王墓から出土した重圏彩画鏡の破片は、復元すると直径が27cmを超え、弥生時代の鏡としては平原王墓の鏡群に次ぐ大鏡であることが分かりました。

 伊都国王が早くから大きな鏡を重視していたことをうかがわせる貴重な資料です。

(写真上:三雲南小路王墓出土の重圏彩画鏡の破片▽写真下:江戸時代発見時の重圏彩画鏡の状態、青柳種信著「柳園古器略考」所収)


④末盧国王の銅鏡

   方格規矩(ほうかくきく)四神鏡
                 直径23.2cm
           桜馬場遺跡(唐津市)
               国重要文化財

 弥生時代後半には、伊都国周辺でも有力なクニが存在したことが、各地の遺跡から出土した銅鏡によって知ることができます。

 桜馬場遺跡は、唐津市一帯にあった末盧国の王墓。甕棺から2面の銅鏡、巴(ともえ)形の飾り具、腕輪などが出土しました。

 銅鏡は方格規矩四神鏡と呼ばれ、玄武(北)、青竜(東)、白虎(西)、朱雀(南)の四方をつかさどる四神が描かれています。

 この方格規矩四神鏡は伊都国王も好んだ銅鏡で、同種の鏡が井原鑓溝(やりみぞ)王墓で21面、平原王墓では32面も出土しています。


⑤平原遺跡の国宝内行花文鏡とヤマトの大鏡

                  直径37.4cm
                  下池山古墳
                古墳時代前期

 弥生時代から古墳時代に国内で発見された銅鏡は、数千枚に及びます。その中で頂点に立つのが平原王墓出土の国宝、内行花文鏡(直径46.5cm、弥生後期)です。

 大きさだけでなく、重さも約8kgあり、古墳時代のヤマトの大鏡も寄せ付けない迫力があります。ちなみにヤマトの下池山古墳から出土した内行花文鏡は、直径37.4cm、重さは約5kg。

 ヤマトの大型古墳に副葬された大鏡をもしのぐ平原王墓の銅鏡。この大鏡は伊都国で作られたとする説が有力で、鋳造技術は当時の世界トップクラス。これも国宝に指定された大きな理由の1つです。

⑥卑弥呼の鏡か

               三角縁神獣鏡
                  直径22.5cm
               奈良県黒塚古墳
               (国重要文化財)
                古墳時代前期


 古墳時代の始まりとともに突然現れる不思議な銅鏡。

 背面に神仙や獣文が描かれ、縁の断面が三角形状に盛り上がることから名付けられました。近畿を中心に全国の前期古墳から出土します。

 卑弥呼が魏からもらったという説がある一方、中国では発見されていないことから国産の可能性もあります。

 奈良県の黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡は銅の質、鋳上がりともに優れた逸品で、国の重要文化財に指定されています。九州では初公開となりました。

⑦割られた鏡

     割って納められた方格規矩鏡
                 直径17.1cm
               唐津市中原遺跡
                弥生時代後期


 銅鏡は常に完全な形で発見されるとは限りません。むしろ割れた状態で発見されることの方が多いのです。多くは長年地中に埋まっている間に自然と割れてしまったのですが、中には故意に割って埋められたものもあります。

 唐津市の中原遺跡で出土した方格規矩鏡は、割った銅鏡を丁寧に布で包んで墓に納められていたそうです。なぜ鏡を割ったのか、その理由はいまだ謎とされています。

⑧引き継がれる銅鏡祭祀

方格規矩鏡(墓坑から出土。完形の銅           鏡を破砕したものか)

                  直径18.6cm
        井原ヤリミゾ遺跡(前原市)
              
           弥生時代後期中ごろ


 弥生時代後期になると葬送儀礼の中で銅鏡を割る破砕鏡や、割った破片を祭祀などに用いる破鏡が、佐賀平野や北九州などで多くみられるようになる。

中国の政情不安が影響し、中国製の舶載鏡が不足したのに対して、数を増やすためとされていた。

しかし、井原ヤリミゾ遺跡など、この時期にも銅鏡を舶載した伊都国の中心地で破砕鏡や破鏡が確認されたことから、一概に不足したためとも言えなくなった。 特にこの場合は、 後の平原遺跡でみられる銅鏡破砕祭祀につながるものと考えることができそうです。

⑨銅鏡のペンダント

              方格規矩鏡片

      カラカミ遺跡(長崎県壱岐市)
              
                弥生時代後期


 縦2.4cm、 横4cmの三角形に形を整えた小さな銅鏡片。 表面には赤い顔料が塗られていました。

  割った断面は丁寧に磨かれていて、 割れた後も使用されていたことが分かります。 頂点には小さな穴が2つ開いていて、 おそらくこの穴にひもを通して胸に下げ、 ペンダントのように使われていたのでしょう。

 銅鏡は割れて小さな破片となっても、 弥生時代の人々にとって大切な宝物であったことが分かります。

⑩着色された銅鏡

                内行花文鏡

                 直径19.7cm
       牛戻遺跡(佐賀県伊万里市)
             佐賀県重要文化財


 伊万里市の午戻遺跡から出土した内行花文鏡は、中国からもたらされた優品です。 鏡の中央には 「長宜子孫」 の4字の漢字が鋳出されていて、 「この鏡を持つことによって子孫が繁栄するように」 との願いが込められています。

 鏡の背面には赤い顔料が塗られていることが確認されました。 鏡の背面の着色例は珍しく、 平原王墓の銅鏡にもみられますが、 なぜ鏡を着色する必要があったのか、 銅鏡にまつわる謎のひとつです。

⑪倭人も始めた銅鏡づくり

              小型仿製鏡

                 直径8.4cm
   二塚山遺跡(佐賀県吉野ケ里町)
  
 中国からの輸入に頼っていた銅鏡も、 弥生時代の末ごろには国産化が始まりましたが、 最初は直径10cmに満たない小型のものばかりで、 模様も不鮮明でした。 これらを小型仿製鏡と呼んでいます。

 しかし、 小さな銅鏡しか作れなかった人々が、 どのようにして、 突如平原王墓で見つかったような大鏡を作ることができたのでしょう。 一説には中国からの渡来人が製作に関与したとも言われており、 この謎の解明にはまだまだ時間がかかりそうです。               (おわり)

国宝指定記念特別展「大鏡が映した世界」 11月19日まで開催中

伊都国歴史博物館092(322)7083
 


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