糸島新聞
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続・糸島伝説集18

2022.03.4

悲恋の長右衛門松(上)/糸島市志摩

 寛永十四年(1637)の秋、徳川幕府のキリシタン弾圧に反抗して立ち上がった天草島原の宗徒たちの一揆(島原の乱)は、幕府が思っていた以上に頑強で、先攻した細川、鍋島、有馬の各藩軍団も一揆の勢力に押され気味となり、いつ鎮定するかも分からない状態だった。

 この有り様に業を煮やした幕府は、藩祖如水以来、九州で武勇を鳴らした福岡藩の藩主黒田忠之に急遽(きゅうきょ)、応援の命令を下した。

 そこで、翌年の寛永十五年正月下旬、藩主の黒田忠之自らが総統となって、数千の精鋭部隊を率いて天草へ向かった。現地では、先攻の各藩と協力し、鶴翼の陣を張って奇襲と正攻法を繰り返し、一揆の勢力を次第に打ち負かして、相手が最後の要塞としていた島原の原城に追い込んだ。

 籠城した一揆の勢力は、最後まで果敢に戦ったものの、ついに矢弾は尽き、刀は折れてリーダーの天草四郎をはじめ、宗徒たちは胸に信仰の火を燃やしつつ、同年二月二十八日潔く自刃し、戦いに終止符が打たれた。

 こうして戦塵(せんじん)が収まったので、黒田忠之は兵馬を集めて帰国の途に就いた。当初は相当な長期戦になると思っていたため、準備してきた多くの武器や弾薬、糧食、軍資金は再び国に持ち帰ることになったが、それは戦いを終えた兵士たちにとって、時間的にも体力的にも大変なことであった。

 それでも凱旋の軍団は意気揚々と、途中肥前の鹿島権現(伝承)に御願成就の参拝をして、大きく迂回して唐津城下に到着し、宿陣した。ところが、その夜から下級の兵や馬卒の者たち多数が腹痛や下痢で苦しみだした。

 「これでは、道中の物資運搬は困難である」と、忠之は福岡藩の留守家老に飛脚を立て、領内から多数の人足を集めて至急唐津に向かうよう指令した。

 当時、志摩郡松隈村に住む長右衛門という屈強な若者がいて、彼もその人足の一人として駆り出され、唐津に向かった。彼は正直で実直な性格だったため、特別に千両箱運搬の役に回された。

 そうして、忠之率いる一行は無事福岡城に帰還し、旅装を解いて久しぶりにくつろぐことができた。だが、そこに計らずも一大事が勃発したのであった。それは千両箱の一つが、大判小判ではなく、ただの石塊にすり替えられていたのである。

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