伊藤野枝と糸島❸女性解放運動家 没後100年 

波間泳ぐ「海賊の女王」

伊藤野枝が泳いだ今宿の海と能古島

女性解放運動家で文筆家の伊藤野枝は、1910(明治43)年4月、念願がかない、東京の上野高等女学校4年に編入学し自由な校風のもと、その学生生活を謳歌しました。しかし、卒業後は在学中に決められた結婚のため、帰郷することになります。卒業前、野枝は同級生たちに、必ずまた東京に出てくること、自分は人並みの生き方をしないため、いずれ新聞紙上でお目にかかるようになること、もし九州にいることになれば「玄界灘で海賊の女王」となって「板子一枚下は地獄」の生活という生き方をするかもしれないと言っていたそうです。


 この野枝の言葉は、今後の運命を暗示しているかのように思えます。そう同級生たちに言い残し、帰郷した野枝でしたが、わずか9日間で婚姻を拒否し出奔。親戚や友人の家を経て、再び上京します。野枝が向かった先は、帰郷する前、ふいに抱きしめられ別れた母校の英語教師、辻潤(じゅん)のもとでした。野枝は辻や辻の家族との同棲生活を続けながら、平塚らいてう主宰の青鞜(せいとう)社の社員となり雑誌「青鞜」や他誌に、作品や評論を発表、また講演活動を行うようになります。
 作品の中には、故郷の海がよく描かれています。野枝は海がとても好きでした。野枝にとって今宿(現福岡市西区)の海は、どんなときも優しく受け止め慰めてくれる存在でした。


 この野枝と海にまつわる話はたくさんあります。帰省し、近くの村の青年との結婚話を父親や叔父の代(だい)準介から聞いたとき、野枝は感情が乱れ、思わず裸足で家を飛び出し、着物のまま海にざぶりと飛び込んで沖へと泳ぎだしたそうです。驚いた叔父らが舟で後を追うと、野枝は波間から「いいようにしてください」と言ったとされています。


 もともと野枝は泳ぎが大変得意でした。今宿から能古島までをぐんぐんと泳いでいったそうです。また、代が今宿に設立した「玄洋游泳協会」で、野枝や従姉の千代子らが、生徒たちへ水泳の指導をしたこともあったそうです。


 野枝は飛び込みも得意でした。男性でもおじけづくような、海水浴場の高いやぐらから平然と飛び込んでいたそうです。「はじめは(中略)、どうしても足がすくんでしまいました。けれど一たんやぐらに上つたら、もうハシゴを取られてしまいましたので二度と下りられません。死んだ気になつてとびこみましたら、案外なんでもありませんでした」と語ったそうです。


 野枝の思い切った行動は日々の生活だけの出来事ではなく、人生の大きな節目をもつくっていきます。


 野枝が女学校で学んだこと、教師辻潤との出会いと同棲、らいてうをはじめとした「青鞜」の社員たちとの交流…。まさに野枝が飛び込んでいった、東京でのさまざまな場や出会いが、「女性解放運動家」として目覚めさせるきっかけとなったのかもしれません。


(福岡市総合図書館文学・映像課 特別資料専門員 神谷優子)(文中敬称略)=毎月1回掲載
 ●参考 糸島新聞▽岩崎呉夫「炎の女 伊藤野枝伝」七曜社(1963)▽井出文子・掘切利高編「定本伊藤野枝全集」学藝書林(2000)▽矢野寛治「伊藤野枝と代準介」弦書房(2012)

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この記事を書いた人

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