玄界灘のともしびの山
むかし-かつて大陸の王朝の優れた制度や技術を学ぶため、遣唐使船などが盛んに海を渡っていた頃のお話です。その航路上、避けて通れぬ玄界灘は、波の荒い海の難所として知られておりました。
ある時、ある使節の船が、風待ちの港である唐泊を出港していきました。やがて玄界灘に差し掛かる頃、それまで夕映えだった空が一天にわかに掻(か)き曇って、風も強く、波も高くなり、船が野北沖まで進んだ頃には、すっかり大荒れとなっておりました。
船は大波に翻弄(ほんろう)されて、使節の人々は生きた心地もありませんでしたが、そんな中、揺れる帆柱の下に腰を据え、一人静かに目を閉じ合掌している学僧がおりました。彼は、使節の人々が、船もろともに海の藻屑となり果てるかの危機に臨んで、仏の慈悲にすがるべく一心に祈念していたのです。
ふと学僧が目を開けてみると、はるかな陸地の辺りから一筋の光が延びているのを目にしました。その光は、見る間に太く増してき、やがて美しい瑠璃色にあたりを照らしていきました。学僧は、それがある山の頂から発せられたものであることに気がつくと、「霊火だ!」と叫びました。
彼は、力尽きて倒れている水夫たちを励ますと、霊火に敬意を表すため、帆を下ろさせ、また使節の一行にも声をかけて霊火を拝ませました。すると、不思議なことに霊火は忽然と消え失せ、風も静まって、気がつくと夜空に月が煌々と輝いておりました。
学僧は、「あの山は、筑紫で名高い不知火山という霊峰で、むかし神功皇后が、この山上で火を立てられた山であり、清賀という高僧が薬師如来を祀られた聖地である」と言い、「思えばこの大荒れも我々があの霊山に不敬であったためであろう」と、あらためて不知火山を礼拝しました。
現在、火山にある不知火山瑠璃光寺の寺号は、この霊火に由来するということです。 (志摩歴史資料館)
◇企画展「いとしま伝説の時代-伝説の背景にあるもの-」は9月10日まで、糸島市・志摩歴史資料館で開催中。同資料館092(327)4422