【糸島市】伊藤野枝と糸島❹女性解放運動家 没後100年

往時伝える糸島新聞

 毎週金曜日、皆様がご覧になっているこの糸島新聞=1917(大正6)年7月20日創刊=は今年3月、糸島市有形文化財(歴史資料)に指定されました。同紙の記事によれば、「新聞が歴史資料として文化財となるのは全国的にも珍しい」ことだそうです。『福岡県前原町誌』で「終始截然(せつぜん)たる品格を保持してゐる」と紹介された糸島新聞。実は、女性解放運動家で文筆家の伊藤野枝ともゆかりが深い新聞といえます。


 創始者は波多江村出身の中村薫=1891(明治24)年7月20日-1930(昭和5)年6月19日=。中村は、文学や社会問題などに関心を持ち、地元の若者たちを中心とした「糸島仏教青年会」に参加していました。福岡市に著名な人物がくると、前原まで招待し講演会を行っていたそうです。「糸島仏教青年会」には、社会奉仕や文学、宗教などを報道する機関誌がありました。その機関誌があえなく終刊を迎えたとき、中村はそのかわりとして「糸島新聞」(創刊時は「糸島農業新聞」)を、自分の誕生日と同じ日に創刊しています。

糸島新聞を創刊した中村薫


 中村と野枝夫妻とは交流がありました。この頃、野枝は母校の英語教師だった辻潤と別れ、思想家でアナキストの大杉栄と生活や活動をともにしていました。大杉・野枝夫妻が、今宿に帰省したときには、この会が主宰する仏教講演会に度々訪れていたそうです。


 中村もまた、1918(大正7)年7月14日に野枝夫妻を訪ねたことが新聞記事や記録に残されています。「ある日、中村と甘□は「虎口に入るような気もちで」福田□をおとずれた。大杉はすぐ出てきた。大杉に会うまではあれも聞こうこれも質問してみようと思つていた二人だったが、何さま大杉を前にしては、さすが血気ざかりの二青年も何を言つていいかわからず…」(□は不明字)と、その顛末(てんまつ)が書かれてあります。この記事を見る限り、野枝よりも、むしろ大杉のほうに関心があったようです。


 また、突然訪れた中村たちに、大杉は「自分ハ社会改善ノ為メ全力ヲ傾注スル考ナルガ如何ナル方法一侠ヲ改善スルカハ具体的腹案モナク(中略)中央ノ権力ヲ今少シ自治団体ニ移シ現在ヨリモ強大ナル団体ヲ作リ」云々と自分の理想や考えを語ったことが記録されています。


 「新聞」は貴重な情報源。当時の野枝や大杉らの生活や行動、考えが記事から詳しく知ることができます。いま何が起きているのか。この地の人々が何を考え、求め、生活しているのか。100年を経ても、往時の人々の息づかいを感じながら、ありありと時代を読み解けるのが「新聞」ではないでしょうか。私達のいまを伝えるとともに、歴史を見つめ直し、未来を見通せる「新聞」をこれからも読み続けていきたいものです。


(福岡市総合図書館文学・映像課 特別資料専門員 神谷優子)(文中敬称略)=毎月1回掲載
 ●参考 糸島新聞▽岩崎呉夫「炎の女 伊藤野枝伝」七曜社(1963)▽井出文子・堀切利高編「定本伊藤野枝全集」学藝書林(2000)▽冨板 敦『大杉栄年譜』ぱる出版(2022)▽『福岡県前原町誌』(1941)

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この記事を書いた人

1917(大正6)年の創刊以来、郷土の皆様とともに歩み続ける地域に密着したニュースを発信しています。

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