いとしま伝説の時代

太閤道と深江神社

名護屋城の本丸跡

 天正年間(1573〜92)、豊臣秀吉は九州平定後に、小田原征伐、奥州仕置を経て天下を統一。その野心は、海の向こうの明国へも向けられ、天正一九(1591)年、その足掛かりとなる朝鮮出兵への準備を開始しました。その前線基地となる肥前名護屋城(唐津市)は、翌文禄元年(1592)三月に完成し、同年四月二五日には、太閤となった秀吉が着陣しています。


 その太閤秀吉が、この遠征で通ったとされているのが「太閤道」で、一部は旧唐津街道よりも南側の内陸にあります。二丈松国の丘陵を越える狭い山道で、現在では竹などが倒れていて通るのは困難です。


 秀吉が、秀頼の誕生を知らされたという深江神社は、松国の太閤道のほぼ真西にあたり、境内には、このとき茶会を開いていたという「太閤お茶会跡」が残ります。秀頼の誕生は、旧暦八月三日のことで、この時の秀吉の喜びようは、この神社の院坊にまで「誕生山秀覚院」という称号を贈り、秀頼の加護を祈ったことからも窺(うかが)えます。
 (志摩歴史資料館)

 ◇ 企画展「いとしま伝説の時代-伝説の背景にあるもの-」は9月10日まで、糸島市・志摩歴史資料館で開催。同資料館092(327)4422

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