16日の伊藤野枝100年フェスティバルで、野枝の波乱万丈の人生を講談で演じる神田紅さんが福岡市西区の鐘撞(かねつき)山の麓にある野枝の墓石をお参りした。本番に向け、物語づくりに打ち込む神田さんは墓石に手を合わせた後、「女性解放を、生きざまで示した野枝のバイタリティを伝えたい」と意欲を見せた。
この日、神田さんを案内した郷土史家の大内士郎さんによると、野枝の墓は当初、故郷・今宿の海岸近くに木の墓標が立てられていたが、引っこ抜かれるなどいたずらが続いたため、叔父の代準介が大きな自然石を墓石として置いたという。
墓碑銘はないが、関東大震災の際、憲兵に虐殺された野枝と大杉栄、大杉のおい、そして野枝の死後の翌年に1歳で亡くなった野枝と大杉の長男の4人の墓石といわれる。
墓石は戦後、早良区の寺に移されるなど転々とした後、30年ほど前に現在の場所に据えられた。墓石は現在、木立に囲まれているが、大内さんによると、墓石が30年ほど前に移ってきたころは、眺望が開けていて野枝が得意の泳ぎをした今宿の海岸が見渡せたという。
神田さんは、野枝の没後60年の際には、亡き親と子の絆を描くテレビ局のドキュメント番組に出演し、野枝の遺児、伊藤ルイさんをレポートしている。神田さんは「野枝は、福岡の女らしく『やらなくちゃ』というところがあった。その潔さを講談で演じたい」と話していた。
伊藤野枝 東京の上野高等女学校を卒業後、故郷で親の決めた相手に嫁ぐが、すぐに出奔。高女時代の教師辻潤のもとに身を寄せ、文芸誌「青鞜(せいとう)」で働き、フェミニズムの先駆者平塚らいてうの後を継ぎ2代目編集長就任。その後、辻と別れて大杉栄と同棲。無政府主義者として共に活動し、関東大震災の混乱の最中、大杉と大杉のおいの橘宗一と共に憲兵大尉甘粕正彦らにより虐殺された。