干拓と人柱伝説
現在の泉川(雷山川下流)河口付近では、元和元(一六一五)年頃から干拓が始まりましたが、海をせき止めるための汐止め(土手)は難工事で捗(はかど)らず、元和四年の夏になって、ようやく一応の形はできました。
しかし、強風で加布里湾が荒れだすと、当時の脆弱(ぜいじゃく)な汐止めでは波を防ぎきれずに、一夜にして海に戻ることもあり、その度に修復へと駆り出される農民たちもすっかり疲れきっていました。
同年、何度目かの台風が襲来した秋のこと、遅々として進まぬ汐止め工事を眺めながら、カラカラと笑う通りがかりの山伏がおりました。山伏が「お前たちは何をしておるのじゃ?」と声をかけると、工事に従事していた農民たちはムッとして「見ればわかるだろう」と言い返します。山伏は、ふと真顔になって言いました。
「よいか、この土手が度々壊されるのは、竜神様の怒りのせいだ。その怒りを鎮めるには、生贄(いけにえ)を捧げるほかない。人柱だ、生きた人間を人柱に埋めるのだ」
農民たちは、山伏を見上げて「そんなことできるもんか、誰が人柱になるんだ?」と騒ぎます。山伏は「そうだなぁ、では横目につぎ布を当てた衣服を着た者を人柱に決めよう」といい、その場にいた役人もそれを承諾しました。
農民たちは、誰もがつぎ当てだらけの服を着ていたので、互いの着物を見せ合いながらも落ち着かない様子でしたが、間もなく山伏が法衣を脱ぐと、アッと驚きの声を上げました。その山伏の着物には、横目のつぎが当ててあったからです。
けれども山伏は顔色を変えず、「よろしい皆の衆、わしがこの土手の人柱になろう」といい、農民たちに、自分を縄で縛って土中に埋めるよう言いました。幽心と名乗った山伏が、「これを機に一日も早く土手を完成して下され、そのほかに望みはござらぬ」と言い残すと、農民たちは、この犠牲に涙しながらも「幽心さまを犬死さすな」と声を上げ、工事はみるみる捗って、汐止めは完成しました。
この土手のあった所には、幽心を祀ったお地蔵さまが今も立っています。(志摩歴史資料館)
◇企画展「いとしま伝説の時代-伝説の背景にあるもの-」は10日まで、糸島市・志摩歴史資料館で開催中。同資料館092(327)4422