関東大震災から100年。焼け野原の被災地が混乱する中、憲兵隊に拘引され、共に暮らし活動した無政府主義者大杉栄と、大杉のおい橘宗一とともに虐殺された旧今宿村出身の伊藤野枝。当時、糸島新聞がこの事件をどう報じたのか調べていると、関東一円で多くの朝鮮人が殺傷される悲惨な状況の背景となった流言(デマ)に関係する記事を見つけた▼1923(大正12)年9月12日付。東京から避難し糸島に帰郷した男性の証言。「(日本が韓国を併合したことに不満を持つ朝鮮人や過激思想を抱く者等が)暴行を働くとの噂(うわさ)が伝わり自衛団は組織されその一員となり数夜竹槍(やり)を提(ひっさ)げて警戒に任じた」▼罪のない人々を犠牲にしてしまう、あってはならない流言が広がったのにはどんな理由があったのか。国の中央防災会議の専門調査会がまとめた関東大震災の報告書に、流言による被害拡大の記述がある。これによると、「人々にとって情報の不足あるいは欠乏と感じられる事態が生み出された」とある▼日刊の大新聞社のうち倒壊を免れたのは3社のみ。震災翌日に号外をわずかに出せたのみで「ほぼ3日間は新聞の空白状態」だったという。ラジオ放送はまだ始まっておらず、新聞が唯一の速報系メディアだった時代。情報の欠乏により、流言の根底にある不安に結びついていったという▼「一切の事情が判らなくなったが実に新聞は食物につぐ智識の食物で一日も欠かれぬことを痛切に感じた」。帰郷した男性の言葉。とはいえ、発行できた新聞社の中には、流言をそのまま報じたという研究者の指摘がある。正確な情報を発信してこその災害報道。肝に銘じている。
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