天下人はどんな境地でお茶を点てていたのだろうかー。豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた名護屋城(佐賀県唐津市)にあった草庵茶室が復元されたというので、同市の県立名護屋城博物館に出かけた▼草庵茶室があったのは、秀吉が日常生活を送った同城の上山里丸(かみやまざとまる)。発掘調査の成果や、秀吉の茶会に招かれた博多の豪商の日記をもとに考証して造られた。草ぶきで、柱は竹と簡素簡略ながら、洗練され、精神に張りをもたらす▼興味を引くのは、この博物館には草庵茶室とは対極の「黄金の茶室」も2年前に復元され一般公開されていることだ。秀吉は、静かな山あいの風情を思わせる私的な空間にある草庵茶室で、閑寂なときを過ごした。一方、茶室だけでなく茶道具までが金という黄金の茶室では、フィリピン総督使節や明国使節の応接をした。侘(わ)び寂(さ)びと、豪華絢爛(けんらん)。まったく趣の異なる美意識を併せ持つ桃山文化の多様さ、奥深さを感じさせる▼草庵風の茶道の形式は、侘び茶と呼ばれる。日本大百科全書によると、「侘び」とは「侘ぶ」という動詞が名詞化し、元来は「気落ちする」など好ましからざる状態をさす言葉。それが、おちぶれて心細い心境を積極的に肯定し、その境地を楽しむという意を持つようになったという。千利休によって大成された侘び茶は、あくまでも精神性を重視し、華美やぜいたくを退けた▼黄金に包まれて催す茶の湯は、秀吉が自らの権力や経済力を誇示するためのものだった。黄金の茶室を、大名たちを圧倒するための政治的な舞台にしたのである。そんな秀吉も、栄華を極めた自らの人生を、消えていく露にたとえて辞世の句を詠んだ。死ぬ間際になって権力のはかなさを思い知ったのであろう。そのとき、侘びの境地に近づけたのだろうか。
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