【糸島市】《糸島新聞連載コラム まち角》元寇碑に思う平和

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今週号で取り上げた元寇(げんこう)750年シンポジウムの中で、福岡市西区今津にある元寇の記念碑が紹介された。2年前、小欄でも触れた「元寇殲滅之處(せんめつのところ)」という銘が刻まれた石碑。大正時代初期、石碑の建立準備が進められていた時、第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、日本は中国大陸で支配力を強めていった。「殲滅之處」という銘からは、こうした時代の空気が読み取れる▼石碑の基礎工事では、第1次世界大戦中、中国・青島の戦いで日本軍の捕虜となったドイツ兵が使役された。建碑を進めた元寇史跡保存顕彰会が福岡連隊の司令部に願い出て、日本初の捕虜使役となった。砂浜近くに石碑を建てるため、ドイツの高い技術力を頼りにしたとみられる▼当時、日本は欧米列強から「一等国」とみなされるよう努め、捕虜を人道的に扱う国際条約を守ったといわれる。福岡日日新聞(西日本新聞の前身)が今津での捕虜使役の様子を伝え残す。記事によると、80人の捕虜が2日にわたり工事に携わった。捕虜たちは、福岡市内の収容所から列車を乗り継ぎ、今津へと移動したが、車内ではハーモニカを吹いたり、たばこを吸ったりと、喜々としていたという▼2日目の作業は2時間ほどで終わった。昼食時には、捕虜たちに福引券が配られた。賞品は一等のビールをはじめ、氷砂糖やみかんあめ、落花生など。食後は記念撮影を行い、捕虜たちは絵はがき店での買い物、小学校などでの植樹をし、今津の人たちと触れ合ったさまが報じられている▼全国各地にあったドイツ兵の捕虜収容所。スポーツや音楽といった活動や、農業、食品加工の技術指導などで、地域の人たちとさまざまな交流があったという。兵士とはいえ、多くの人は、戦争が起きる前は一般市民。捕虜と地域の人々が心を開き合ったいくつものエピソードは、戦争とは何か、平和とは何かを考えさせる。

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