【糸島市】《糸島新聞連載コラム まち角》江戸時代の国家づくりと糸島

まち角アイキャッチ

 「江戸のメディア王」と称される版元(出版業者)の蔦屋重三郎が主人公のNHK大河ドラマ「べらぼう 蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」。天下泰平、そして文化隆盛の江戸時代の雰囲気を感じ取りながら見ている。それにしても、どのようにして、この平和な時代が250年にわたって保たれたのだろうか。江戸時代の国家づくりを勉強し直してみた▼江戸幕府を開いた徳川家康は、大きな敵対勢力だった豊臣氏を大阪夏の陣で滅亡させた後、戦乱が収まり平和になったという元和偃武(げんなえんぶ)の宣言を出す。そして、幕府は諸大名を統制するための法令の武家諸法度(ぶけしょはっと)を発令した。幕府に対する反乱や大名同士の戦いを封じるためだ。このルールに背いた大名には、領地を取り上げて家をつぶす改易(かいえき)や、領地を減らす減封(げんぽう)など、とても厳しい罰を与えた▼三代将軍の家光の時代まで、幕府は政治基盤を固めるために強圧的な政治を行い、131もの大名の家が取りつぶされた。「武断政治」と呼ばれ、領地を強制的に移す転封(てんぽう)も行われた。領地は大名のものというより、幕府のものであるかのような統治だった。糸島の歴史を振り返ると、このありさまがよく見えてくる▼江戸時代の怡土郡西部の領主について二丈町誌で調べると、めまぐるしく変わっている。深江に焦点を当てると、最初の領主は唐津藩主の寺沢広高。人々に公役を課して新田造成のために潮よけ堤防を築き、浜辺の砂による農作物への被害を抑えようと松を防風林として植え、深江発展の基礎をつくった▼だが、広高を継いだ堅高(かたたか)の時代、唐津藩領天草で島原・天草の乱が起き、堅高は天草の領地を没収される。堅高は乱の10年後、自殺。跡継ぎがおらず改易となった。この後、深江は唐津藩領から幕府の直轄地、豊前中津藩領と領主が交代していった。同様に唐津藩領だった福吉地区はさらに激しく、幕府領、唐津領、幕府領、対馬藩領と移り変わっていく。国家の体制づくりがいかに地域に大きな影響を及ぼしたのか。こうした視点をさまざまな時代にあてはめ、地域の歴史をより深く理解してみたい。

糸島新聞ホームページに地域密着情報満載)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

1917(大正6)年の創刊以来、郷土の皆様とともに歩み続ける地域に密着したニュースを発信しています。

目次