【糸島市】《糸島新聞連載コラム まち角》望東尼救出、成功の要因

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福岡藩の勤王派に対する弾圧事件で幕末、姫島に流された女流歌人、野村望東尼(ぼうとうに)の獄舎が島内に再現された話題を、本紙の先週号で取り上げた。その取材で久しぶりに獄舎跡を訪ねたとき、強風で白波が立つ唐津湾の光景がやけに印象的だった。長州藩の勤王家、高杉晋作の意を受け、荒武者の志士6人が早船でこの海を渡って来て、獄中の望東尼を救出した▼望東尼の救出作戦が行われたのは夜中ではなく、大胆にも昼七ツ時(午後4時)頃だった。望東尼研究家の谷川佳枝子さんの著書「野村望東尼」(花乱社)を要約すると、早船は浜崎(佐賀県唐津市)方面からやって来て、志士たちは上陸後、二手に分かれた。一手が島の役人宅を訪ね、朝廷から望東尼赦免の沙汰が出たので身柄を受け取りに来たなどと言って押し問答をする間に、もう一手が獄舎にたどり着いて鍵をたたき壊し、足がなえていた望東尼の両腕を抱きかかえて船着き場に急いだという▼谷川さんは、救出が成功した要因の一つとして、島の人々が志士たちの行動を見て見ぬふりをしてくれたことを挙げる。「これは島人たちが望東尼に日頃から親しみを覚えていたということを抜きには考えられない」と記す▼実は、島外から渡って来て、望東尼を慰問していた人物がいる。当時、対馬藩領だった福井の勤王家、釘本久平長邦だ。長州の志士と志を同じくし、福岡藩から逃れてきた勤王派の志士をかくまい、長州に逃れさせている。二丈町誌平成版によると、久平は廻船(かいせん)問屋を営み、姫島や鹿家などの沖に「大敷網」を設けて漁業も行っており、姫島周辺の海域を熟知していた▼そして、町誌は、久平が多くの長州人を雇っていたことを記し、釘本家の所蔵する文書を紹介する。その中には「護送ニ従事シタル船ハ、実ニ鹿家大敷ノ船タリシナリ」とのくだりも。「護送」とは、福岡藩の志士を逃れさせたことを指していると読み取れる。こうした状況から、望東尼の救出のときも、久平が関わり援助していたと推察される。豊かな歴史を誇る糸島だが、幕末も、また熱い。

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