【糸島市】《糸島新聞連載コラム まち角》雷山空襲の証言、心に刻み込み

まち角アイキャッチ

焼夷(しょうい)弾による爆撃で8人が死亡した雷山空襲から19日で80年。本紙の今週号は、雷山空襲の惨禍を正視し、平和の尊さを考える特集を組んだ。小欄では、被災者の証言を後世に伝え残すために作られた空襲の記録集を取り上げる。糸島市雷山地区の住民たちが26年前、出版した「村に火の雨が…」。あらためて一人一人の証言を読み、心に刻み込んだ▼戦争の不条理-。米軍機が爆撃したのは、軍事施設などない田園地帯の農村だった。犠牲となったのは、銃後の守りをした人や幼い子どもだ。当時、45歳以下の男子は、多くが出征兵士として軍隊に入り、村を守るのは残った男子でつくる警防団。そして、女性は命をなげうって戦う前線の兵士と同じ精神で銃後を守った▼証言をつなぐうち、空襲時、銃後を守る人たちが雷山国民学校でどう動いたのか、如実に表れてきた。銃後の力として役立つことが求められた戦時下の空気をも伝えている▼当時6歳だった少年は深夜、警報のサイレンが鳴り響く中、父親に起こされた。ただ、そこに母親の姿はなかった。母親は国民学校の教師。学校の警戒に走っていたのだ。外に出た少年の数メートル後方に焼夷弾が落ち、家の中で炎が上がった。少年は父親に手を引かれ、姉と一緒に紅蓮の炎を抜け、防空壕(ごう)へと逃れた。「母がいてくれたら」。そして「自分の家が焼けているのに、小さな子どもがいるのに『なぜ』『なぜ』」。少年は、母親を通し、人々を軍国主義に巻き込んだ戦争の現実を知り、葛藤を抱いたのだと思う▼爆撃の中、少年の母親だけでなく、何人もの教師が学校に駆け付けた。教師の1人が職員室から学籍簿を取り出そうとしていたとき、焼夷弾が落下。破片がその教師の背中を斜めに切り裂いた。板戸に載せられて病院に向かう途中、教師は息を引きとった。遺した言葉は「私は何も悪いことをしていないのに」。空襲があった日、麦秋を迎えたとはいえ、刈り入れの人手が足りず、村では黄金色に実った麦が揺れる畑もあった。のどかな光景を二度と惨劇の場に変えてはならない。

糸島新聞ホームページに地域密着情報満載)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

1917(大正6)年の創刊以来、郷土の皆様とともに歩み続ける地域に密着したニュースを発信しています。

目次