「引津商人」。今年の本紙新年号で、地域の歴史に詳しい河村裕一郎さんが江戸時代、糸島半島西側の港町を拠点にした商人の活躍ぶりを紹介し、大きな反響を呼んだ。この記事をきっかけに、郷土の誇るべき歴史について理解を深めてもらおうと、引津校区文化委員会が今月半ば、地元で講演会を催した▼講師は糸島市文化課の河合修さん。古い記録から、さまざまなエピソードを取り上げ、興味が尽きない内容となった。引津商人は、現在の引津校区にある船越と久家、新町、岐志の出身で、200年以上前、有田(佐賀県)で生産された磁器を、伊万里(同)で買い付け、国内各地で売りさばく廻船(かいせん)業を営んだ▼どんなところまで磁器を運び、商売をしていたのだろうか。河合さんによると、1784年の福岡藩御用帳には、引津商人が伊万里を出航し、現在の兵庫、和歌山、三重の3県の港を回航したことが記されている。ユニークな古記録もある。伊万里の豪商がお伊勢参りをした際、三重県で久家の商人、和歌山県内とみられる港では岐志の商人と出会ったという道中記が残っている。商魂たくましい引津商人たちの姿が思い浮かんでくる▼西側の海に向けて開けた引津の港。古代、大陸との間を行き来する船が立ち寄る港でもあった。日本の朝廷が朝鮮半島の新羅に派遣した遣新羅使の船が停泊したことは先月の小欄で触れた。時代をさかのぼると、朝鮮半島系の墓制が弥生時代、この地にもたらされ、多くの支石墓が造られた▼河合さんが講演で、明治時代半ばに引津で持ち上がった興味深い計画についても話してくれた。産炭地の飯塚から博多経由で鉄道を敷設する計画があったという。幻となったが、実現したなら、大掛かりな埋め立てをして石炭の積出港になっていた。いまは、糸島らしいのどかな漁港。いにしえの人々がさまざまに足跡を残していった歴史ロマンには、この風景がよく似合っている。
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