戦後80年という大きな節目の年が終わろうとしている。戦争体験の風化や、世界で続く紛争の現実と向き合い、平和に対する思いを再確認する1年だったと思う。田園が広がる農村に焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、8人が死亡した太平洋戦争末期の雷山空襲、日本兵と島民が軍民一体となって米軍に突撃し集団自決が起きた沖縄戦、そして広島と長崎に投下された原爆…。不戦への思いを込め、小欄でも随時、戦争と平和について記してきた▼長い戦争が終わった後の80年前の12月は、どんな状況だったのか。都市部では焼け野原が広がり、食糧や生活必需品の配給制度は麻痺(まひ)状態で、ヤミ市が雨後のたけのこのようにできた。食糧難は深刻で、人々は食べるので精いっぱいだった。そんな中、人々に生きる希望を与える明るい歌声がラジオから流れるようになった▼並木路子が歌う「リンゴの唄」。戦後復興期の象徴的な歌として、当時を伝える記録映像と共によく流され、若い世代の方も聞いたことがあるだろう。赤いリンゴ、そして青い空。出だしにある鮮やかな色彩をイメージさせる歌詞は、人々の心をとらえ、誰もが口ずさんだという▼リンゴの唄は、戦後映画の第一号となった「そよかぜ」の挿入歌。歌手を目指す少女のスター誕生物語で、並木が主役を演じた。ただ、並木はこの歌を収録する際、当初は、どうしても明るく歌えなかったというエピソードが残っている▼このときから、まだ1年もたっていない1945年3月、東京は大空襲に見舞われ「火の海」となった。その中を、並木は母親の手を引いて避難したが、母親は亡くなった。並木は父親と次兄も、戦争で失った。そして、初恋の人は学徒出陣し、特攻隊出撃で帰らぬ人となった。大切な人を次々と亡くし、その悲しみは決して消えない。ただ、焼け野原の街には、同じように最愛の人を戦争に奪われながら、必死に生き抜いている人がたくさんいた。何も言いはしないリンゴ。それでも、その気持ちはよく分かる…。リンゴの唄の歌詞に含まれる意味合いを何度もかみ締めている。(糸島新聞ホームページに地域密着情報満載)
【糸島市】《糸島新聞連載コラム まち角》「リンゴの唄」に思う戦後80年

