糸島市の志摩歴史資料館で開催中の「いとしま伝説の時代-伝説の背景にあるもの-」(9月10日まで)。「改訂版 糸島伝説集」(糸島新聞社刊)などに収録されているエピソードを中心に、糸島で語り継がれてきた民話や昔話など100編余りの中から、20編ほどをイラストや解説付きで展示、糸島の歴史の奥深さの一端にふれることができる企画展となっています。今回はそんなおはなしの中から、思わず背筋に冷たいものが走るような、不思議な出来事を選び抜きました。夏の暑さを忘れ、ひとときの涼をお楽しみください。
だいぐれん
江戸の頃、糸島半島のある集落に、大変強欲で意地の悪い老婆がおり、近所では「鬼婆」の異名で呼ばれておりました。
その鬼婆も寄る年波には勝てず、ふとした病気がもとで死んでしまったのですが、家族や近所の人たちも惜しむどころか喜ぶありさまで、ある面では、かわいそうなところもありました。
ところが、この鬼婆、死んでも成仏できなかったとみえて、葬式が済んで、家族がホッとしているところへ、白昼堂々、臨終のときの乱れ髪のままの姿で現れました。そして、無念の形相すさまじく「お前たちのおかげで、おれはいま地獄に落ちようとしている。お前たちも道連れだ!」と、手当たり次第に物を投げ壊し、家人たちを追い回しました。
それからはもう毎日、昼近くになると現れて、近隣や方々の家にまで乱入して暴れまわり、夜になると埋められた墓地に帰っていくということが繰り返されました。集落の家々では鬼婆の出る頃になると、外が明るくても戸を閉めきり、夜になっても、明かりをつけずに息をひそめて過ごしました。
この暴れる幽霊に手を焼いた村人たちは、遠近の寺々に頼んで怨霊退散の施餓鬼法要をしましたが、むしろその祭壇さえもひっくり返す勢いで収まらず、最後には福岡の大智識という名僧の法力に頼んで地獄に突き落としてもらい、ようやく騒動は収まりました。
この地域には「だいぐれん」という言葉がありますが、ここでは「暗黒」を意味するのだそうで、この幽霊が恐ろしく、日の暮れと同時に明かりもつけずに寝静まったところから起こったものだということです。
がたん橋の由来
昔、二丈の片山と深江を隔てる一貴山川に橋はなく、満潮時には舟で渡り、干潮時には干潟を歩いて渡るという不便さでした。幕末頃になってようやく橋が架かり、近隣の住民は「がたん橋(潟ん橋)」と呼んで喜びましたが、この橋には、次のようないわれがあります。
ある年の暮れのこと、質屋の善兵衛の店先に、身なりの貧しい女が訪ねてきました。女は、「私が以前に質入れした丹前は、深い訳のある品で、何としても正月前には質受けいたしたく、どうか半額でお返し願えませんか」と懇願します。
人のいい善兵衛は女を気の毒に思いましたが、商売上簡単には値引きできません。善兵衛が「まだ期間があるから、もう少し稼いでおいで」というと、女は肩を落として帰っていき、その後、二度と姿を見せることはありませんでした。
やがて正月も過ぎ、風も生暖かくなった春の夜、善兵衛が提灯片手に屋敷内を夜回りしていると、質草をたくさん入れた蔵の奥に、何者かが立っている気配がしました。
提灯の、ほの暗い明かりを向けてみると、照らされたのは、いつぞやの女の丹前で、それが、まるで生きているかのように両袖を揺らしながら、こちらに向かって歩いてくるように見えます。
善兵衛が、おびえる自分を励ますように、「だ、誰だ、いたずらする奴は!」と一喝すると、丹前はスゥーと煙のように消えていきましたが、それがまた一層気味悪く思われました。
それからはもう毎晩のように現れては、善兵衛の肝を冷やしましたが、善兵衛は、「これは、きっとあの女の怨念に違いない、気の毒なことをした」と後悔し、それからは質屋もやめてしまいました。
その後、善兵衛は材木商を始めて、商売は順調に発展しましたが、「質屋では人に悲しい思いもさせてきたが、今度は喜ばれることをしよう」と考え、材木と工費を負担して、「潟ん橋」を完成させたということです。
深江のオキしゃん
大正の初めごろ、二丈の深江に、「オキしゃん」という面倒見のよいお産婆さんが住んでいました。
ある冬の夜、そんなオキしゃんのもとに見知らぬ男が駆け込んできて、「妻がお産でひどく苦しんでいます。一緒に来て助けてください」と言い、オキしゃんを急き立てます。冬の夜道を走っていくと、夜なのに道だけは妙に明るく、走っているのに苦しくもなくて、まるで夢の中のようでした。
男の家では、妻が苦しそうにうめき声をあげています。男が「私の手振り通りに妻の処置をしてください」と言うので、指示に従うと、無事に赤ん坊が生まれて、男も妻も大喜び。オキしゃんには、たいそうな祝いの膳がすすめられました。
翌朝、寒さで目が覚めると、そこは城山の森の中で、枯葉やわらくずに埋もれていました。食べ物だけは本物でしたが、どうやら狐に化かされたようです。オキしゃんは、家に飛び帰りましたが、それから数日たって、あの狐がお礼に訪ねてきました。
話を聞くと、狐は難産手当の秘法は知っていたものの不器用なので、オキしゃんの手を借りたとのこと。教えたことは秘密にしてほしいと言って、消えました。
その後、オキしゃんは、この秘法により、助産の名人として、近隣の評判になったということです。
語り継がれる不思議な出来事
−糸島夜話− 夏の暑さを忘れ、ひとときの涼を
猪撃ち作兵衛
かつて、井原山のずっと奥の小盆地に水無村の集落があり、ここに作兵衛という猟師がおりました。作兵衛は、鉄砲の腕も度胸も人並み勝れた名手で、人々からは尊敬されて「猪撃ち作兵衛」と呼ばれておりました。
秋も深まったある日のこと、作兵衛は愛銃を肩に、いつものように狩りに出かけておりましたが、その日はどうしたことか、獲物がありませんでした。彼にとって、こんなことは珍しく、もう早く家に戻って酒でも…と思った、その時です。
一匹の虻(あぶ)がブンと飛んできたのを、蛙(かえる)が素早くパクリと食べたのを目にしました。作兵衛が、普段は鈍そうな蛙だが、餌をとる動作は大したものだと感心していると、今度は一匹の蛇(へび)が木の根元からはい出てきて、先ほどの蛙を捕らえて食べました。
晩秋の奥山の、次第に寂れゆく気配の中で、二つの因果な死を見届けた作兵衛の心には暗いものがありましたが、気を取り直して家に戻ろうとすると、目の前に一頭の大猪が疾風の勢いで飛び出してきました。
作兵衛は、待っていましたとばかりに身構えましたが、大猪の狙いは先ほどの蛇で、勢い込んだ大猪を前に、蛇はなす術もなく食べられてしまいました。
作兵衛は、手練れの早業で銃を構え、猪の額にピタリと狙いを定めましたが…その心内に一筋の閃光が走り、目の前で起こった一連の光景が脳裏をよぎります。
虻が蛙に食われ、蛙が蛇に呑まれ、その蛇が大猪に食われた。この猪を倒したら、今度は俺が…作兵衛は恐ろしい予感に震え上がりました。
すると雲行きが急に変わり、ゴオォと突風があたりの草木をなぎ倒したかと思うと、ピタリと止んで、「作兵衛、よいところに気がついた」と地獄の声が響きました。
作兵衛は、我が身の危険を感じ、無我夢中で家に逃げ帰りましたが、「この日ばかりは恐ろしかった」と、後に人に話したそうです。
馬止めの石
江戸の初め頃、二丈に庄屋がおりました。
ある夜、この庄屋が浜の村での用事を済ませ、酒など振る舞われて深夜に帰宅していると、竹戸神社の前にある自然石の大石の手前で、乗っていた馬が突然「ヒヒーン」と一声あげて動かなくなりました。
押しても引いてもピクリとも動かない馬に庄屋が困り果てていると、なまぬるい一陣の風が吹き、提灯の火が消えて、あたりが真っ暗になりました。
庄屋が、風の来た方に目をやると、暗闇だというのに、はっきりと一人の女の姿が浮かび出てきました。女は、「馬が進まないのは私がここにいるからです。用が済めば立ち去りますから、しばらくこの子を抱いていてくれませんか」と、庄屋に頼みます。
庄屋は、女があまりに真剣なので、「早く用を済ますがいい」と、その赤ん坊を預かりました。すると女は、「この子は少し重いかもしれませんが、どんなに重かろうと決して落とさないように…」と、妙なことを言って姿を消しました。
赤ん坊は、その大きさの割には重く、しかも抱いているうちに、どんどんと重さが増していきます。庄屋は「なんのこれしき」と、帯刀の下げ緒を引き出して赤ん坊の体にまわし、その両端をしっかり握って支え、ひたすら落とさぬよう抱きかかえました。
やがて女が戻ってきて、「よく辛抱してくださいました。おかげで用事も済み、これで私も成仏できます。この子の重みに耐えてくださったお力が代々伝わるように念じます。それがお礼でございます」と、頭を深々と下げると、その姿は大石に吸い込まれるように消えていきました。
すると、馬は何事もなかったかのように動き出し、庄屋は無事に帰宅できましたが、その夜の不思議な出来事を家人に話し、「あれが幽霊というものか」と、大きく溜息をつきました。
その後、この庄屋の家には、代々大柄で力持ちの男児が生まれたということです。
志摩歴史資料館