福岡市総合図書館 波乱の生涯紹介
女性解放運動家で糸島郡今宿村(現福岡市西区今宿)出身の伊藤野枝(1895-1923)が9月16日で没後100年となるのに合わせ、野枝の書簡・作品を通し、その鮮烈な生きざまをたどるトピック展示が福岡市早良区の福岡市総合図書館1階ギャラリーで行われている=写真。「吹けよあれよ 風よあらしよ」。野枝が遺した言葉通り、嵐のごとく駆け抜けていった28歳の生涯に迫る資料約100点がそろえられている。10月15日まで。
野枝は東京の高等女学校を卒業後、帰郷して親の決めた相手と結婚するが、家のために知らない相手と結婚を強いられる因習に反発しすぐに出奔。女学校時代の教師辻潤のもとに身を寄せ、フェミニズムの先駆者・平塚らいてうが編集長を務める雑誌「青鞜(せいとう)」の編集部で働くようになった。弱者を抑圧する社会の矛盾と向き合い、貞操、堕胎、廃娼論争を繰り広げる記事を発表。その後、無政府主義者の大杉栄と恋愛関係となり、辻と別れて同棲し、5人の子どもを産み育てながら活動を共にする。
「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」。野枝は1918(大正7)年、大杉が職務執行妨害の疑いで東京の警察署に拘禁されたとき、内務大臣の後藤新平に抗議の書簡を送った。「私は一無政府主義者です」から始まる書簡は、警視総監を監督する立場の大臣に対し、まったく物おじせず拘束の不法をただしている。会場では、この書簡の写しを展示。野枝の力強い筆致は、権力に決して屈しない気迫を感じさせる。
野枝は関東大震災の混乱の最中、大杉と、わずか6歳だった大杉の甥と共に、憲兵大尉の甘粕正彦らによって拘引され、尋問の後に虐殺された。甘粕が事件から8日後、3人を殺害したとの罪で起訴されたことを報じる東京日日新聞(毎日新聞の前身)実物の展示もある。
また、らいてうが非業の死を遂げた野枝に思いを寄せ、糸島新聞に2回にわたって書いた追悼文の写しを見学できる。野枝と初めて会ったときの印象として「誰だって可愛がらずにはゐられないような純な生々とした田舎娘でした」と、らいてうはつづる。野枝を知る地元の人たちが生存していたころ、野枝について聞き取った話を交え、野枝の生涯を書いた糸島新聞の連載「玄界灘の女」(63~64年、計50回)一部の写しも読むことができる。
同図書館文学・映像課の特別資料専門員で、本紙で「伊藤野枝と糸島」を連載中の神谷優子さんは「さまざまな局面を迎えるたびに、強い意志をもって人生を切り開いていった生きざまを知ってもらいたい」と話していた。