《糸島新聞連載コラム まち角》

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 日本で稲作が始った太古の昔、実りの季節の田は黄金色ではなく、赤く鮮やかに輝いていたのであろう。古代から伝わる赤米と、現代のもち米をかけ合わせた二丈赤米が頭(こうべ)を垂れる糸島市二丈吉井の広大な水田。そよ風に揺れるその光景を眺めていると、日本人の原風景に触れた気持ちになった▼糸島は日本最古級の稲作集落跡が見つかった地。日本は梅雨があり、夏の高い気温も稲の生育条件と合い、北部九州にもたらされた稲作は、弥生時代中頃には東北地方北部まで広がっていったという。稲は人類を最も繁栄させた作物とされ、日本でも歴史を大きく動かしていく役割を果たした▼狩猟社会から定住して米作りをする農耕社会へと変化していき、これが日本の社会の基礎になっていった。稲作には、灌漑(かんがい)や治水が必要で、それを共同作業で行なうために村が生まれた。村は首長によって統率され、より規模を大きくし、それがクニへと発展していき、ついには日本という国家が形づくられた▼米は古代から長い時代にわたり経済の基盤となった。江戸幕府は、土地の生産力が米の収穫量で換算された石高制度を支配体制の基礎とした。石高は農民に対して年貢を決めるもとになり、「加賀百万石」などと藩の規模は米の収穫量で表された▼文化面では、米の収穫を祝って秋祭りが今も各地で催され、春の田植え時に豊作を願う歌や踊りも伝わる。ただ、現代は暮らしの変化もあり「お米離れ」が進んでいる。「お米の価値」を今一度、見つめ直してみるためにも、まずは一杯でも多くのご飯を、感謝を込めて味わいたい。

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