せきを斬るー。新型コロナ下、何とも頼もしい「せきの神様」を祭る神社が糸島市二丈鹿家にあると聞き、唐津湾の海岸近くにある神社を訪ねた。ほこらがある薄暗い石窟に向かうと、意外な光景が目に飛び込んできた。どっさりと山積みにされたプラスチック製のおもちゃの刀。祈願が成就すると、木刀を供える風習があり、それが現代風に姿を変えたのだという。
糸島の秘話を取り上げる「糸島ないしょばってん」。1回目は糸島市最西端の佐賀県境そばにある「七郎神社」に赴いた。
二丈鹿家・七郎神社
「昔は木刀ばかりで、数が増えてくると、どんど焼きのように、近くの砂浜でお焚(た)き上げをしたものです」。義祖父の時代から代々、七郎神社のお世話をしたきた地元の宇治川アヤ子さん(74)は、積み上がっていく刀の様子を見ながら、人々の深い信仰心を感じ取ってきた。
神社の小ぶりな鳥居は国道202号に面して立っているが、車からだと、周囲の木々の茂みの風景に溶け込み、つい見過ごしてしまいそうになる。ただ、90年以上前の昭和初期、多くの参拝者があったことをうかがわせる歌が残っている。北九州鉄道(現JR筑肥線)が沿線観光ソングとして作った「唐津小唄」の歌詞に、この神社が登場するのだ。
作詞したのは、なんと北原白秋。「咳(せき)の神様、七郎茶屋よ、ホノトネ、刀あげませう、旗そえて」。「七郎茶屋」という歌詞から察せられるように、この地で茶屋が営まれるほどのにぎわいがあったようだ。
信仰する人たちから敬意を込め「七郎権現様」とも呼ばれる。その名の由来、さらには、どうしてせきで苦しむ人たちをお救いされているのか、地元の伝承から紐解いてみたい。
七郎権現様は、奈良時代にこの地で切腹して果てた右馬(うめ)七郎を地元の人が弔ったのが始まり。七郎は、大宰府に左遷された藤原広嗣(ひろつぐ)の家臣。広嗣は740年、朝廷で台頭した反藤原勢力を追放するよう上奏文を朝廷に送るが、受け入れられず挙兵。これに対し、朝廷は討伐軍を出す。
広嗣は板櫃(いたびつ)川(北九州市)で討伐軍と決戦に臨んだが、大敗し西へと逃れる。七郎はこのとき、広嗣の馬の手綱取りとして従っていた。わずかな手勢のみとなった広嗣の一行が鹿家に差し掛かったとき、討伐軍が待ち構えていた。
死闘となり、その最中、七郎は崖から転落した。気を失ったが、冷たい雨が七郎を打ち、しばらくして意識を取り戻した。近くの石窟に身を隠したが、体を冷やした七郎は風邪をひいていた。「ゴホン、ゴホン」。思わず出たせきを聞きつけ、討伐軍が駆け寄り石窟を取り囲んだ。七郎は覚悟を決め、自ら刀で腹を突き、息絶えた。
一方、広嗣はその後、済州島(韓国)へ逃れようとするが、捕らえられて肥前国松浦郡で処刑される。その場所は明確ではないが、唐津市の鏡神社二の宮や大村神社では、広嗣が祭神として祭られている。鹿家と、隣接する唐津市に主君と家臣の最期を物語る地があるのは偶然なのだろうか。
広嗣が朝廷に上奏文を送ったのは、朝廷に逆らおうとしたのではなく、天皇に忠臣であることを伝えたかったとの説がある。ならば、2人は、さぞかし無念さを抱き、死んでいったであろう。鏡神社の重藤薫範宮司に、七郎がせきを治す神様となったわけを尋ねてみた。「せきをしたため、命を終えてしまった。そんな苦しみに遭わないよう、人々を救われているのでしょう」。
奉納された数え切れないおもちゃの刀。人々の病が治った安堵と深い感謝の気持ちがひしひしと伝わってくる。
(2023年3月17日付糸島新聞)