糸島新聞が市文化財に 紙面や版木など230点 1917年創刊から計62年分

 糸島市教育委員会は3月30日、大正・昭和期刊行資料としての糸島新聞と、活版印刷に使った同紙の版木など計230点を市有形文化財(歴史資料)に指定した。新聞などの近代歴史資料は、消滅や散逸などの危機にさらされているものが多いとして、文化庁が後世に伝えるために保護する措置をしており、今回の指定はこれに沿った先端的な事例。市教委によると、新聞が歴史資料として文化財となるのは全国的にも珍しいという。

大正6年7月20日発刊の糸島新聞創刊号1面
大正6年7月20日発刊の創刊号1面

 指定されたのは、1917(大正6)年7月20日付の創刊第1号から、活版印刷からオフセット印刷に移行する82(昭和57)年の12月18日付(4,370号)までの原本で、計62年分が計224冊に分けてつづられ、同社で保存している。版木は活版印刷の際、絵や写真を印刷するために使用していたもので、6箱分を指定。同市内の遺跡で出土した土器など糸島らしい図柄の版木が含まれている。

 糸島新聞社(糸島市)が発行する同紙は、糸島郡波多江村(現糸島市)の中村薫が「糸島農業新聞」(月1回発行)と題して創刊した。当時は第一次世界大戦による特需で空前の好景気に沸き、「成金」が多数生まれる一方、急激なインフレや凶作によって農村は疲弊。農業が主産業の糸島で人々は厳しい暮らしを強いられていた。

 こうした状況下、中村は「糸島を元気にするには、農業こそが肝心だ」「農家の暮らしを少しでも良くしたい」との思いで、農家の世帯収入を増やす「新農業主義」を掲げた。創刊の辞では「糸島永遠の長計に資するところあらんとす」と、地域の人たちに尽くしていく思いを記した。

 創刊した17年の12月には、農業だけでなく商業や工業も大事だとして「糸島新聞」に改題。旧糸島郡域の地元紙として住民に支えられ、定着した。ただ、 太平洋戦争開戦間近の41年11月、「一県一紙」の新聞統制を受けて廃刊となるが、終戦後の45年11月に復刊。現在、週1回、発刊している。

 市文化課によると、歴史資料としての文化財は「朝日新聞(大阪)収蔵資料」(大阪市指定文化財)の例などがあるのみという。同課は「大正期から戦前、戦後を経て現在までの糸島の政治や人々の暮らしぶりなどをつぶさに記録した歴史資料がまとめて保存されていることは、糸島の地域史だけでなく近代史研究とって非常に重要である」と評価している。

大正6年12月5日から糸島新聞に改題
大正6年12月5日から糸島新聞に改題
古墳や文化財など活版印刷用の版木
古墳や文化財など活版印刷用の版木

元福岡国際大学教授 黒木彬文氏 寄稿

 糸島新聞は創刊当初、「新農業主義」を掲げ、非政治的立場をとりました。やがて地域の有力者を経営陣に迎え、1919年に大正デモクラシーの柱である普通選挙の即時断行と政党政治を支持する立場を明らかします。

 大正デモクラシーとは吉野作造の民本主義が主導し、明治憲法体制のもとで、藩閥官僚政治を議会中心の政党政治に改革しようとする思想と運動です。民衆が主体となる運動は、天皇制政治社会の民主化を目指し、日露戦後から大正末まで続きました。

 糸島新聞は、内政では普通選挙は支持しましたが、外交では日本の中国への対外膨張を支持しました。これは糸島新聞が、商工業者を基盤とする政治家に指導された前期大正デモクラシーの性格(内に立憲主義、外に帝国主義)をもっていたことを示しています。

 糸島新聞は1937年から本格化する日中戦争を支援します。戦争遂行のための総力戦体制に組み込まれ、言論統制政策のため、太平洋戦争開戦直前の1941年11月に廃刊となります。敗戦後は1945年11月に復刊し、戦後改革で誕生した新憲法を支持し、1982年までは活版印刷で発行を続けました。

 糸島新聞は初期から1941年の廃刊まで「郷土の公器」を標榜し、糸島の地域社会に密着した新聞として、地域社会の政治、経済、社会、文化の分野にわたる情報を伝えてきました。このような歴史と特徴をもつ新聞ですから、糸島という地域社会が1920年代の小春日和の平和状態から1930年代の戦争に協力する総動員体制に変化していく過程と要因を明らかにしようとする歴史研究には、貴重な情報を提供する資料になるでしょう。

 私も糸島新聞の記事を歴史資料として研究したことがあります。それは2009年に出版された「新修志摩町史」の執筆陣に加わり、糸島地域の大正昭和期の政治経済分野を分担執筆したときのことです。ふたつの驚きがありました。

 ひとつは、他の行政文書、資料にはない貴重な情報(例えば、各村レベルにおける、各種選挙の候補者得票数や米麦の収穫量、小作料など)が糸島新聞に載っているのに驚き、その記事を使って原稿を仕上げることができました。

 村レベルの情報を利用できたのは、糸島新聞が地域密着型の新聞だったからだと思います。私と同じ経験をした研究者が多いことは、同書の近現代史部の多くの論稿が引用資料や参考文献に糸島新聞を記していることで分かります。

 もうひとつの驚きは、糸島新聞の1924(大正13)年元旦号と次号の各第一面に、吉野作造の論説「普通選挙を如何に徹底すべきか」を目にしたときです。論説は、時の藩閥官僚政府が非民主的制限選挙に固執する態度を批判し、普通選挙の即時断行と婦人への参政権付与を主張していました。

 この論説掲載は、当時の糸島新聞が大正デモクラシー支持の立場であった点を示しいます。吉野と糸島新聞の間にいかなる関係があったのか、興味深い点ですが、まだ明らかにされていないようです。なお、この論説は「吉野作造選集」別巻(岩波書店、1997年)の著作年表にも記載されていません。

 新聞は地域の歴史研究者だけでなく、伝説、民話、風俗、慣習などひろく人間の営みに関心のあるひとにも、いろんな情報を与えてくれると思います。

 有形文化財に指定された戦前の糸島新聞は、1930年代の糸島の地域社会(新聞も含めて)が軍部主導政府の戦争に巻き込まれ、戦争を支援する社会に変貌していった様子を伝えています。戦争を許した過ちを再び繰り返さないため、当時の歴史から学び、今日に生かす必要があります。新聞の役割は権力の監視です。この時期の糸島新聞が多くの市民によって読まれ、平和な日本と国際社会をつくるために利用されることを希望します。

新聞の力再発見を

日本新聞博物館の尾高泉館長の話

 この度、糸島新聞の創刊号から連なる紙面や版木が、歴史資料として糸島市の文化財指定を受けたことに、お喜び申し上げます。一昨年、実際に糸島新聞を訪問し、桐箪笥(きりだんす)に保管されていた紙面を拝見しました。新聞社の文化財指定には、美術工芸品や社屋など建造物への評価が多いのですが、歴史資料としての文化財指定は、まさに、古代遺跡や日本最大級の銅鏡が出土している稀有(けう)な糸島の地にふさわしいことと思います。改めて、歴史の記録者としての新聞の力を地域の皆さんに再発見いただければと思います。

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この記事を書いた人

1917(大正6)年の創刊以来、郷土の皆様とともに歩み続ける地域に密着したニュースを発信しています。