いとしま伝説の時代

神功皇后の足跡を辿る伝承

遠い昔のお話です。第十四代仲哀天皇が、九州の熊襲(くまそ)討伐のため、神功皇后らを伴って香椎の宮に巡幸された時のこと。皇后が神がかりになられて、「海の面に美人の黛(まゆずみ)の如く見ゆる向い津に、金銀の輝く宝の国がある。その国を授けるのでこれを討て」とのご託宣を述べました。


 しかし、天皇は、高い山からはるかに沖を眺めてみても壱岐、対馬のほかは望めなかったので、このご託宣が信じられませんでした。そこで、まず熊襲討伐に軍を進められたのですが、その緒戦に矢傷を受けられ、そのままお隠れになってしまいました。すると再び皇后に四柱の神々が口寄せられ、「向う津の宝の国は、皇后の胎中の皇子に授くるべし」と述べました。そこで皇后は、ご懐妊中であるにもかかわらず、男装して先帝の身代わりとなり、勇躍、海の向こうの新羅の国へ渡られることとなりました。


 出航地である松浦へ向かう途中、怡土の深江に寄港され、浜辺を歩いていると、白く輝く二つの美しい石が目に留まりました。皇后は、これを神よりの授かりものと子負ヶ原(こぶがはら)の地に祈願して懐中にはさみ、皇子の誕生をお留めになりました。


 その後、様々な神護のもとに勝利した神功皇后は、無事遠征より凱旋すると、めでたく皇子(後の応神天皇)をお産みになりました。


 皇后は、この神護の石を祈願した子負ヶ原の丘に納めて祀られると、やがて「鎮懐石」と呼ばれるようになり、今に至っているそうです。(志摩歴史資料館)

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 糸島市の志摩歴史資料館で29日から、企画展「いとしま伝説の時代-伝説の背景にあるもの-」がスタートする。


 悠久の歴史を誇る糸島地域には、郷土の暮らしに根差した数多くの伝説が残っており、その背景には遠い昔の生活や習慣などが色濃く反映されている。


 同企画展では、改訂版「糸島伝説集」(糸島新聞社刊)などから選抜した伝説を紹介しながら資料を展示し、解説を加えている。糸島新聞では今週号から、企画展で取り上げている伝説について、一部を連載で紹介する。

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この記事を書いた人

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