いとしま伝説の時代

戦国期のいとしま「戦国時代の怡土と志摩」

柑子岳の写真

 糸島地域の戦国時代は、応仁元(1467)年8月、怡土郡在地の原田種親が、周防(山口)の守護大名、大内氏の求めに応じて、応仁の乱に参戦したことで幕を開けます。


 このころ大内氏は、筑前守護として怡土郡にも郡代(代官)を置き、原田氏ら在地の国人衆を統括していましたが、北部九州、とりわけ博多とその周辺の権益や領有をめぐっては、九州在地の守護大名(少弐氏、大友氏)と激しく争っていました。大友氏は、志摩郡の柑子岳(草場)城に郡代を置いており、これが後々まで怡土郡の原田氏と争うことになります。


 このように原田氏は、当初大内氏に従っていましたが、内乱によって大内氏が滅びると、これまで大内氏が領有していた怡土郡も大友領となり、原田氏も一時的に、これまで敵方だった大友氏に従うこととなりました。これは他の国人衆も同様で、当時は従うべき有力大名の勢力関係をうかがいながらも、お互い敵になったり味方になったりを繰り返し、家の存続を図るといった状況だったのです。


 原田氏は、その後も毛利→龍造寺→大友と目まぐるしく主従を変えましたが、天正六(1578)年に大友氏が耳川の合戦にて島津氏に大敗すると、龍造寺氏に通じて、柑子岳城を攻めて陥落させ、怡土・志摩全体を掌握することとなりました。


 天正一四(1586)年、豊臣秀吉の九州征伐により原田氏は降伏しましたが、その際、島津氏を頼んで最後まで抵抗したため、所領は没収となり、怡土・志摩地域における原田氏の支配は終焉を迎えます。(志摩歴史資料館)


 ◇ 企画展「いとしま伝説の時代-伝説の背景にあるもの-」は9月10日まで、糸島市・志摩歴史資料館で開催中。同資料館092(327)4422

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