いとしまの太閤道【太閤さまのお通り】
天正二十(一五九二)年春、太閤・豊臣秀吉の号令により開始された朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、肥前(佐賀県)の名護屋城がその拠点となりました。名護屋城へは、秀吉も自ら出陣することがあり、その通り道となった糸島地域には、いくつかの逸話が伝えられています。
【太閤道】 名護屋城への進軍の際、太閤自らが「赤松山(二丈松国)の田に入るな」とお触れを出しました。赤松山のふもとの田んぼは、どれも底知れぬ深田で、うかつに入ると胸まで浸かり、容易に出られぬことを知っていたのです。
そこで太閤は、田地に沿わない山間に、新たに掘割道をつくらせました。これが現在でも「太閤道」として伝わっているということです。
【井牟田のセリ】 進軍中に前原で休息した太閤は、食膳にて供された井牟田のセリを「これは天下第一のセリの味」とことのほか気に入り、大阪へ戻る際にも前原に立ち寄ってセリの料理を所望しました。
しかし、急なこととて井牟田のセリを摘むことができず、違う場所のセリを供したところが、太閤は「このセリは、前のセリとは違っているようだ」と、箸(はし)を置きました。産地の違いを味で見破った太閤に、接待役も恐れ入ったとのことです。
【太閤水】 太閤が進軍の途上、美味しい湧き水で喉(のど)を潤したという「太閤水」の伝説は、長垂と深江にありますが、中でも深江では、深江神社でこの水を用いた茶会が度々開かれていたということで、逸話が残っています。
ある時、この茶会の最中に大阪城からの早馬が駆け込んできました。報(しら)せの内容は、淀殿が待望の男子(秀頼)を出産したというもので、この時の太閤の喜びようは天にも昇るものでした。
太閤は、時の筑前領主、小早川隆景に、この縁起のよい神社の社殿改修を命じ、この時に寄進されて今もなお残っているのが、境内にある第二の鳥居ということです。 (志摩歴史資料館)
◇ 企画展「いとしま伝説の時代-伝説の背景にあるもの-」は9月10日まで、糸島市・志摩歴史資料館で開催中。同資料館092(327)4422