いとしま伝説の時代

糸島の干拓事業

幽心地蔵の写真

 糸島地域における干拓事業は、天正年間から明治初期までの約三百年の間に行われました。最古の干拓は、天正一八(一五九〇)年の僧、龍念による龍念開(現在の志摩津和崎近辺)といわれ、江戸時代(元和年間~嘉永年間)には、干拓事業の大半が行われています。


 これは、近世日本においてお米が経済の基準になり、幕府や諸藩による新田開発の奨励が影響したものとみられます。また、江戸時代の干拓事業の一つであった、嘉永五(一八五二)年の嘉永開(現在の志摩寺山~御床・小富士)については、作業の様子を描いた絵図も残っており、当時の様子を伺(うかが)うことができます。


 干拓は、まず海中に土手や石垣を築く作業から始まります。干潮時の僅(わず)かな時間を利用して、一気に土俵をつき上げるという作業を繰り返し行いながら潮止堤防を造るのですが、これはとても困難な作業でした。


 例えば、嘉永開の工期中には、完成直前に潮止堤防が沈下してしまい、築き直しをしていたところを、今度は大風と高潮に見舞われ再び決壊してしまうなど、役人や出役した村人たちがガックリと肩を落としたであろう不測の事態も起きました。


 しかし、それらを乗り越えて、絵図にも描かれている「潮止め」と呼ばれる最終作業には、怡土・志摩郡併せて約四十以上の村々から四千人にものぼる人々が出役したといわれています。


 現在、嘉永開を含めた糸島地域の干拓地の多くは、糸島市内の農業を支える重要な地盤となっています。

 (志摩歴史資料館)

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