【糸島市】伊藤野枝と糸島❼女性解放運動家 没後100年

枝折れて―流転する墓石

 「大杉栄外二名を致死」。その凶報は、女性解放運動家で文筆家の伊藤野枝、大杉栄の親族や関係者に知らされました。


 野枝の叔父代準介は、その報を聞くや、すぐに厳しい戒厳令がしかれるなか、単身上京しました。ようやく野枝達の遺体と対面した代と親族らは、悲しみや怒りのなか3人を荼毘(だび)に付しました。ちょうどその頃、静岡で療養中だった橘宗一の母あやめも上京してきました。あやめは、庭先から「宗坊はいますかっ」と叫んでころがるように家の中に入り「じゃあ、あれは本当なんですかっ。本当なんですね……」と言い、一人息子の、小さな箱に納められた遺骨の前で泣き崩れました。代準介の一代記『牟田乃落穂(むたのおちぼ)』には、その様子を「殆(ほとん)ど狂人の如く泣き入り五時間に渉(わた)るも沈静せず」と、悲しみにくれるあやめの姿を記述しています。


 代は、魔子ら4人の遺児の養育を決心し、分骨された3人の遺骨を携え、気丈に今宿まで連れ帰りました。野枝夫妻の長男、0歳のネストル(栄に改名)を喪主に葬儀がおこなわれ、代は「枝折れて根はなおのびん杉木立」と弔句を詠みました。「枝」は野枝、「杉」は大杉、そして「木立」は「子(ども)達」の意味が込められていました。遺骨は松原に埋葬されましたが、3人が眠るお墓にもかかわらず、戸籍の問題で、野枝の墓標のみが建てられました。


 しかし、野枝達に反感を持つ人によって、墓標が引き抜かれ荒らされることが起こりました。生前ばかりか、死後までも…。代は心を痛め、今度は無記銘の大きな自然石を野枝達のお墓としました。


 しかし、その墓石も野枝達と同じく、流転する運命をたどります。最初のきっかけは、墓地の改装でした。墓地の遺骨は別の場所へ安置され、いらなくなった墓石は家や寺の基礎石に再利用されました。ところが、野枝達の墓石はあまりにも大きく、動かすのには困難だったため残ったままでした。


 近くの人が庭石として引き取ったのですが、しばらくして、その家に偶然、不幸事が続いたのです。「たたりがある」。そう村の人々はうわさしました。ついに、そのうわさは、野枝夫妻の四女、ルイの耳にも入ります。自分の親の墓が「たたる」とは。思い余ったルイは、その石を福岡市内のあるお寺に預けました。しかし、そこでも安らかに眠ることはできませんでした。再び、ルイは親しい友人に頼み、この墓石を今宿の山の中に移し安置します。墓石が置かれたのは、古墳のある地。そして、野枝が生涯愛した、あの今宿の海がみえる場所でした。野枝は再びあの懐かしい今宿に帰ってきたのです。

今宿の山中に安置されている墓石


 (福岡市総合図書館文学・映像課 特別資料専門員 神谷優子)(文中敬称略)=毎月1回掲載


 ●参考▽井手文子・堀切利高編『定本伊藤野枝全集』学藝書林(2000)▽矢野寛治『伊藤野枝と代準介』弦書房(2012)▽大杉豊編著『日録・大杉栄伝』社会評論社(2009)▽冨板 敦『大杉栄年譜』ぱる出版(2022)

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この記事を書いた人

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