【糸島】刀伊の入寇 多角的に語る

糸島市文化課の瓜生さん  船越津へ向かう討伐軍の進路に視点

 平安時代中期に沿海州地方の女真族が筑前一帯を襲った「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」をテーマにした講演会が15日、糸島市志摩の引津コミュニティセンターで開かれた。同市文化課主幹の瓜生秀文さんが合戦の地となった地元の船越津へと向かう討伐軍の進路に視点を当て、今津-加布里にあったとの説がある「糸島水道」について、当時は存在しなかったとの見方を示すなど、地元に引き付けながら興味深い話をした。

講演会の休憩中に図面を使って討伐軍の説明をする瓜生さん


 講演会は、大陸とさまざまに関わってきた引津校区の歴史を広く発信しようと、同校区文化委員会(仲西優満会長)が催し、市内外から104人の歴史ファンが集い、熱心に聞き入った。


 刀伊の入寇は1019年、中国東北部や沿海州に住む女真族が大型船50隻余り(兵員・推定2,700人)で朝鮮半島の東岸を荒らしながら南下した後、対馬や壱岐に襲来。さらに怡土郡や志摩郡、博多湾に侵攻、人を殺害したり捕らえたりしたのをはじめ、牛馬の略奪、民家への放火をしたという。


 瓜生さんは、刀伊の来襲の目的について「労働力としての人間(奴隷)と穀物などの食料の略奪が想定される」との見解を述べた。


 刀伊を討伐したのは、大宰(だざいの)権帥(ごんのそち)、藤原隆家が遣わした軍勢。陸路と海路に分けて編成し、博多湾から船越津に移動した刀伊を攻めたが、その際、海路軍は陸路軍より先に出発して進軍。糸島半島沿岸部に沿い、陸路と比べて遠回りしながら船越津に向かったとみられている。瓜生さんは糸島水道が存在していたのなら、海路軍は陸路軍の行軍と合わせながら糸島水道を進んだと考えられ、わざわざ遠回りする必要はなかったと述べた。


 また、刀伊の入寇の後、朝鮮半島に近い地域の防衛が重視されるようになり、対馬や壱岐に「武者」が国司として起用されることとなり、国境地域の支配が強化されていったことを説明。刀伊の入寇が大きな契機となり「兵の家」が成立し、それが「武士」という新社会集団を形成していくことになるという歴史の大きな流れについても語った。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

1917(大正6)年の創刊以来、郷土の皆様とともに歩み続ける地域に密着したニュースを発信しています。

目次