弓張月(ゆみはりづき)が満ちていき、いよいよ17日に中秋の名月がひときわ美しく秋の夜空に輝く。奈良時代、糸島の地で、月が白く光るさまを詠んだ歌が万葉集に収められている。「ぬばたまの 夜渡る月にあらませば 家なる妹(いも)に逢(あ)ひて来ましを」。私が夜を渡っていく月であれば、家にいる妻に会って来るのに…。古代の旅人の心情を表しているが、詠んだのはただの旅人ではなかった▼日本の朝廷が朝鮮半島の新羅へと派遣した遣新羅使一行のひとり。736(天平8)年に難波(現大阪市)を出航した遣新羅使。この年の旧暦の7月下旬、風待ちのために韓亭(からどまり)(現福岡市西区)に停泊した。韓亭で3日がたった夜、月光の下で、この歌は詠まれた▼新修志摩町史は、この一行を「悲劇の派遣団」として取り上げる。どんな事態に見舞われたのか。一行は難波をたった後、瀬戸内海を航海するが、周防灘で逆風大浪に遭い、幸いにも現在の大分県に漂着。そこから筑紫館(つくしのむろつみ)(現福岡市)に至り滞在する。ただ、そこは疫病が猖獗(しょうけつ)を極める地だった▼大宰府管内では、伝染力が非常に強く致死率の高い天然痘が猛威を振るっており、一行はその惨状を知りながら九州に入った。もう一つ、この使節に暗い影を落としたのが極東情勢。新羅と唐が友好関係を回復し、日本は不利な立場になりつつあった▼筑紫館滞在の後、新羅へと向かう往路から天然痘による死者が出るようになった。大使は帰国の途中に対馬で病死、副使も発病して京に入れなかった。使節は、悪化する新羅との関係を打開していくための任務を果たせていなかったという。韓亭で詠まれた「夜渡る月」の歌は抒情的だが、歴史的背景を知ると、一行の悲痛な心情が前面に押し出されてくる。引津亭(現糸島市志摩)にも、この使節が詠んだ七首の歌が残る。歴史的な視点を踏まえ、あらためて鑑賞してみたい。
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