1945年8月6日、広島に、9日、長崎に原爆が投下されてから80年。閃光を放ち炸裂(さくれつ)した原爆は瞬時に、灼熱(しゃくねつ)の火球を生み、爆心地の地表は、鉄の溶ける温度をはるかに超える3千~4千度に達した。すさまじい爆風により、広島では爆心地から半径2キロ以内の木造家屋はほとんどが倒壊、人々は下敷きとなって圧死した。この年の末までに広島で14万人、長崎で7万人の死者が出た。大量に放出された放射線は、長期にわたって人体に障害を引き起こし、今もなお、被爆者の健康を脅かす▼原爆による心身への傷害は時を経ても癒えることはなく、この原爆の非人道性がもたらす苦しみを二度と、ほかの人間に味わせてはならないと、被爆者たちは平和運動を続ける。「核の時代」がいまだ終焉(しゅうえん)しない中、被爆者たちの意志をいま一度、心に刻み込んでおくために、ある本を手にした▼故大江健三郎さんのルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」(1965年出版)。大江さんは原爆投下から20年近くたった広島を訪ね、被爆者たちの「悲惨と威厳」に満ちた姿を見た。原爆病院の前庭に、平和行進の人々を迎え、入院患者を代表して演説した中年の被爆者はその一人だった。原爆症による全身衰弱で、自力で立っていられない状態で、行進団に志を述べた▼この被爆者は「悲惨な死にいたる闘い」を続けながら、訪ねてくる外国人たちに、絶望的な地獄の経験を語った。大江さんはこう記す。「かれは広島をひきうけたのである。誰のために? 自分の悲惨な死のあとにのこるべき、かれより他のすべての人間のために」▼被爆者の声は、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の活動などによって世界に広められている。「核兵器は人類にとって許されない」。こうした世論が盛り上がる中、2017年に国連本部で122カ国が賛成して「核兵器禁止条約」が採択された。だが、核保有国は加盟せず、米国の「核の傘」に依存する日本も加盟していない。「核なき世界」。その実現には、原爆の悲惨を語り続けることが何よりも大切だと思う。
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