昨年、米価の高騰によりスーパーの棚からコメが消えるなど、「令和の米騒動」とも呼ばれる異常事態が社会を揺るがしたが、日本の食糧生産基盤である稲作は、弥生時代に北部九州に伝わって以降、連綿と受け継がれながら発展を遂げ、国土の豊かな自然景観を形成してきた。今回は、稲作文化がわが国に伝わった時代の遺跡「国指定・新町支石墓群」(糸島市志摩新町)から、新たな文化を受容した在地の人々の痕跡について振り返る。
新町遺跡保存会事務局長 三嶋直子
(糸島新聞社ホームページに地域情報満載)
ー融和的に文化を受け入れた人々の記憶・新町支石墓群ー
縄文から弥生へ
今から2500年以上前、玄界灘を越えて朝鮮半島から人々が渡来したことを契機に、糸島など北部九州で水稲耕作が始まった。これにより、それまでの「狩猟・採集」に依存した暮らしから、「食糧を自ら生産する」生活へと移行し、日本列島における生産経済が芽生えた。
糸島は、特に弥生時代以降、対外交流の拠点として歴史的に重要な位置を占めるようになる。その始まりを今に伝える遺跡が「新町支石墓群」である。

砂質で酸性の弱い土壌や良好な排水性により、弥生時代早期の人骨がきれいな状態で残った。
(写真左奥は可也山)
支石墓の密集地・糸島
支石墓とは、地下に穴を掘って遺体を棺に納め、その上に土を被せて地表に複数の支石を置き、その上に大きな上石をのせた構造をもつ、碁盤状の墓である。台座のような形状から、視覚的にも特徴的な埋葬施設と言える。
この支石墓は朝鮮半島南部に起源をもつとされ、稲作開始期の支石墓は、国内では玄界灘沿岸を中心に長崎県や佐賀県などにも点在する。なかでも、糸島市はこの時期の支石墓が集中する地域で、新町支石墓群をはじめ、志登支石墓群(国指定)、長野宮ノ前遺跡、石崎矢風遺跡、井田用会支石墓、三雲加賀石支石墓、三雲石ヶ崎支石墓などがある。
地域に親しまれた「カンカン石」-新町支石墓群の発見
新町支石墓群は可也山の西麓、引津湾に面した海浜砂丘の上に位置する。地元では、地表に露出した巨石は古くから「カンカン石」と呼ばれ、子どもたちの遊び場として親しまれてきたという。
昭和61(1986)年、宅地開発に伴って本格的に発掘調査されたことを皮切りに、現在、26基の支石墓を含む57基の墓が確認されている。

弥生文化を受け入れた縄文系集団-17体の人骨が語るもの
新町支石墓群では、確認された支石墓の半数は未調査のまま保存されている。これまでに調査された支石墓では、成人の棺には主に木棺が使用されており、弥生早期から前期にかけて埋葬されたと見られる人骨が17体分確認された。
特に注目されたのは、弥生時代早期の人骨が国内で初めて発見された点である。これを受けて、九州大学医学部と連携し、形質人類学的な分析が実施された。
その結果、確認された人骨には、顔の骨格に縄文人的特徴である「低顔」がみられ、風習的抜歯痕や、平均身長157.1センチという低身長傾向など、縄文系の形質を色濃く残していることが判明した。
支石墓はもともと朝鮮半島由来の墓制であるため、埋葬されたのは渡来系の人物であると長らく想定されてきた。しかし、実際に埋葬されていたのは縄文系の特徴を持つ在地の人々だったという事実は、考古学界に大きな衝撃を与えた。
争いと供物の痕跡
調査では、24号支石墓に埋葬されていた人物の左大腿骨に、朝鮮半島由来の磨製石鏃が突き刺さった状態で発見された。骨に治癒の痕跡がないことから、生前に負傷し、そのまま死亡した可能性が高いとされ、争いにより亡くなった「戦死者」だったとの見解も示されている。
このことは、当時の社会においてすでに集団間の争いが発生していたことを物語っている。稲作という定住的な生業の定着は、水田や灌漑施設をめぐる利権の発生や、農耕共同体の形成を促し、それと同時に首長層や階層構造の萌芽をもたらした可能性もある。
また、多くの支石墓のそばから小型の壺が出土している。これらの壺には、花を供えた、あるいは酒や米など故人の好物を納めた可能性があるが、用途の詳細は明らかになっていない。ただし、副葬品としての壺の存在は、供物により死者を弔う葬送儀礼を示す重要な手がかりとなっている。

遺体は膝を曲げて葬られ、頭部には水銀朱が塗布されていた。脇にある石は木棺の底を支えていた台石
縄文的特徴にみる弥生人像の再構築
令和4~6(2022~24)年度に実施された糸島市と九州大学の連携事業により、新町支石墓群の調査成果が再検討され、保存状態が良好な9号墓(弥生時代前期頃)の人骨をもとに、当時の人物の顔が復元された。

九州大学・佐賀大学の協力で保存状態の良い頭蓋骨を精密に計測し、3Dプリンターで模型を作成。
粘土で肉付けし、生活環境を踏まえて肌質やしわ、ひげなどを再現。
縄文時代の在来系要素(四角い輪郭で彫りが深い)をベースとしつつ、
弥生時代の渡来系(頬が張らず目のくぼみが浅い)の特長がみられることから、
ある程度混血が進んでいたことがわかる。
複顔や骨格分析の結果、この人物は縄文系の特徴を色濃く残しながらも、一部に渡来系要素も見られることから、すでに混血が進んでいたものと考えられている。
また、当時の人々は、朝鮮半島起源の稲作や支石墓、磨製石鏃などの先進的な文化を積極的に受け入れていた。渡来系の支石墓を導入しつつも、木棺の使用や、仰向けで足を曲げた独特の埋葬姿勢といった在来の要素も併せ持っていた点は、特に注目される。
こうした融合的な受容のあり方は、渡来文化と在地文化が調和的に共存していた弥生社会の実像を示すものとして、重要な意味をもっている。
保存から活用へ、進む史跡整備
このように、新町支石墓群は、北部九州における弥生時代の黎明期の文化受容のあり方を具体的に示す、極めて重要な遺跡として高く評価され、平成12(2000)年に国の史跡に指定された。
現在は糸島市によって遺跡周辺を含む史跡整備が進んでおり、既存の新町遺跡展示館もリニューアルして、今春に開館予定である。
展示館内には昭和61(1986)年の第1次発掘調査時の状況が再現されているが、一部の支石墓は真上から見学できるよう新たな工夫が施されている。そのほか、写真パネルや出土品のレプリカ展示、大型モニターによる解説動画上映など、来場者が視覚的・体験的に楽しめる展示内容が充実する予定である。
また、敷地内には約20台分の駐車場とトイレを新設。展示館前の広場には、過去の調査で見つかった乳幼児用の甕棺墓や古墳時代の石棺墓などを平面展示し、来訪者が周遊しながら遺跡を身近に感じられる構成になっている。
地域とともに歩む 保存会が設立
新町支石墓群を地域の宝として大切に守り、次世代へ継承することを目的に、昨年8月、地元有志によって新町遺跡保存会が発足した。
保存会では、地域住民や来場者にとって親しみやすく愛される遺跡を目指し、次のような取り組みを計画している。
9号墓の復元人物をキャラクター化し、グッズ作成・販売▽市と連携した記念講演会や見学会の開催▽歴史や考古学に親しむ学習・交流の機会づくり▽花の手入れなど
糸島市内には、「平原王墓保存会」「伊都国の歴史遺産を守ろう会」といった、国史跡関連の保存活用団体や、伊都国歴史博物館や史跡などのボランティアガイド団体も活動している。
今後はこうした多様な市民団体と連携を図りながら、行政主導から市民協働へと進化する文化財保護の取り組みを推進し、糸島市内の遺跡及び歴史遺産の活用と発信を活発化させたい。
◆新町支石墓群を動画で解説 「僕の支石墓研究(リ・レウォンさん)」
◆新町遺跡保存会会員募集 一緒に活動してくれる会員を募集中(年会費1000円)。詳細はウェブサイトから。
(糸島新聞社ホームページに地域情報満載)
