【糸島市】雷山空襲から80年 〜「あぁ、これが戦争なんだ」〜

畠中 禮子さん(90)語る

「戦争が身体の中に染みついている。6月になると、自然と思い出してしまいます」。こう語るのは、糸島市志摩芥屋に暮らす畠中禮子さん(90)。旧雷山村の蔵持で育ち、10歳の時に雷山空襲に遭った。今も胸に深く刻まれた生々しい記憶を証言した。

今も記憶に残る被災体験を語る畠中禮子さん

 1945年6月19日の午後11時頃、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。禮子さんが父親と外に出ると、東の空が真っ赤に染まっていた。「博多の街が燃えている」。その瞬間、B29爆撃機が糸島の上空に迫ってきた。


 「早く防空壕(ごう)に入れ!」。父の叫び声が響き、禮子さんと母親は、家の木の根元に掘った防空壕へ逃げ込んだ。父は土足のまま家に駆け上がり、眠っていた2歳下の妹を抱きかかえて防空壕へ飛び込んだ。


 直後に、激しい爆撃音が響きわたった。焼夷(しょうい)弾が落ちる「ヒューヒューシュルシュル」という音、竹やぶが燃えてバチバチと弾けるような激しい音。禮子さんが恐る恐る顔を出すと、自宅は焼け残っていたものの、周囲は一面炎に包まれていた。


 辺りには人々のわめき声や、村の人たちが負傷者を運び出す足音が響いていた。後に、焼夷弾が直撃した民家で、夫妻と2歳、8歳の子どもの家族4人が亡くなったと聞いた。


 学校に通ったり田おこしをしたりして、普段通りの日々を過ごしていた村が爆撃を受けたという現実に、心が圧倒された。「子ども心に、戦争の意味を分かっていなかった。この日、ああ、これが戦争なんだと強く感じました


 空襲で、雷山国民学校の校舎は焼けた。子どもたちは、近所のお宮や大木の木陰で本を読んだり、先生と教科書を読み交わしたりするだけの日々が続いた。「勉強するのも不自由で、とにかく物がなかった。皆学校へ行くにも裸足で行き、学校で足を洗ったりしていました」と、空襲後も苦難が続いた日々を振り返る。


 80年が経った今「戦争を体験した人でなければ、本当の恐ろしさは分からない。本当に、何度も何度も、戦争を止められたらと願ってきました」と語気を強める。「若者たちが戦場に行くようなことは、絶対にさせたくない。自分が生きている限り、これからも戦争が起きないよう心から祈っています

糸島新聞社ホームページに地域情報満載)

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