ーーーママライターの『糸島で見ぃつけた!』ーーー
現在、世界中の人や文化が集う大阪・関西万博が開催中であり、遠くの国をぐっと身近に感じることができる。糸島市にも2千人を超える外国の人々が暮らしており、その数は 10年前の約3倍にのぼる。学校や地域の中にも、多様なルーツを持つ子どもたちがいる。本特集では、そうした子どもたちや若者、家族を対象に、文化や言葉の違いを超えて、糸島でどのような思いを抱きながら暮らしているのかを取材した。同じ地域で暮らす「世界のともだち」を知り、共に生きていくために、自らの暮らしや考えを見つめ直すきっかけとなることを願い、ママトコラボ取材班が紹介する。
(糸島新聞社ホームページに地域情報満載)
家族を敬う心、日本でも
モヤナ・グレーイシーさん(33)、ライアルくん(12)、リアムくん(10)
ジンバブエのこんにちは hesi(ヘッシー)/ makadii(マカディ)

アニメ好きのリアムくんの手にはドラゴンボールのフィギュア
アフリカ南部のジンバブエ共和国から、約1年半前に糸島へやってきたのは、ライアルくんとリアムくん。母親のグレイシーさんは、その8カ月前に来日し、生活の準備を整えた。現在は九州大学大学院の修士課程に通う。
ライアルくんは前原中学校の1年生で、家庭では母国語のショナ語と英語で会話をしている。移住してきた当初に比べると、日本語や日本の生活にかなり慣れてきたという。「言葉の違いはあるけど、他はそんなに違いはないかも」と話した。自転車で近所を走るのが楽しい、という弟のリアムくんは小学5年生。ジンバブエでは放課後に、よくストリートサッカーを楽しんでいたと懐かしむ。


ジンバブエに住んでいた頃の話になると、大好きだったオニオンリング風味のスナック菓子の話で盛り上がった。ライアルくんのお気に入りの料理は、母国でよく食べていたボーアウォースというソーセージ。ひき肉やスパイスが入った南アフリカの伝統的なソーセージだ。うっとりした顔で思い出すが、日本では買えないと残念がった。
2人はジンバブエでは祖母と暮らしていた。よく教会に一緒に行き、優しい祖母が大好きだった。グレイシーさんは、2人の日本語が上達したら、いろいろな人と交流を深め、糸島で祖母のような存在と出会ってほしいと期待を寄せる。「ジンバブエは日本と同じように、目上の人を敬い、家族を大切にします。子どもたちには両国に通じる心を、糸島でも育ててほしい」と語った。
(クレマデス海上愛)
刺身好きムスリムの中学生
ハッサン・モハメド・ハッサン・モハメド・エルノビ・モハメドさん(12)
エジプトのこんにちは السلام عليكم(アッサラーム・アライクム)

エジプト人の父母を持つハッサンさんは、日本生まれの中学1年生。糸島市志摩師吉の福岡インターナショナル・イスラミック・スクールに通っている。
この学校では一般教養科目に加え、聖典のコーランや、イスラム教徒にとって大切な価値観を、幼児から中学生までの約50人のムスリムと共に学ぶ。「近所とのご縁を大切にしたい」と、花やお菓子を持ってあいさつにまわることもある。以前通っていた公立小学校では、個室を借りて一人きりで礼拝していたが、「ここではみんなでお祈りできて安心感がある」と笑顔で話す。

ハッサンさんの味覚はだいぶ日本寄りだ。好きな食べ物はすし、たこ焼き、いちご大福。肉よりも魚、特に刺し身がお気に入り。週に1~2回は近くのJF糸島「志摩の四季」で鮮魚を手に入れ、家族で「めっちゃおいしい」と舌鼓を打つ。言語面では両親とはアラビア語で会話するが、「僕は日本語の方が上手だから」と、日本での生活が長い姉たちとは日本語を使う。イスラムの教えを大切にしつつも、日本の文化や感覚に自然となじんできている。
夢はプレミアリーグのサッカー選手。休日は近所の友だちや学校の仲間とサッカーを楽しみ、技術を磨くために授業の休憩時間も練習に余念がない。ヨーロッパで活躍する日本生まれのエジプト人プレイヤーの誕生に期待したい。

(古川章子)
異国での子育てを楽しむ
ウィクラマ アラチゲ プリヤサド カスン ガヤンタ ウィクラマラチさん(33)一家
スリランカのこんにちは ආයුබෝවන්(アーユボーワン)

ガヤンタさん(右)ジャヤニさん(中央)みづきちゃん
昨年9月、スリランカ出身のガヤンタさん夫妻に子どもが生まれた。病院の検診や各種の手続きは、夫のガヤンタさんが、妻のジャヤニさん(28)に毎回付き添って通訳した。ガヤンタさんは「周りがいつも親切に助けてくれるので、困ったことはあまりないです」と話す。2人は「みんな優しい」と口をそろえ、「毎日の子育ては大変だけど楽しい」と笑う。特別養護老人ホームに勤務するガヤンタさん。「職場では80代の人も元気に働いていて驚きました。皆さん健康管理の意識が高く、食事の栄養バランスもいい」と日本人の健康寿命の長さに感心する。
ガヤンタさんは人との交流を大切にし、会社で参加する地域の祭りやスポーツイベントなどを積極的に楽しんでいる。スリランカの料理を作って文化交流をすることもあり、「みんなとつながって社会貢献していきたいです」と語った。


7月からジャヤニさんが職場復帰し、娘のみづきちゃんが保育園へ通い始める。「ママたちとつながって、子育てや学校のことを勉強したい」とジャヤニさん。「娘には母国語や仏教のマナー、生活習慣など、時代に合ったスリランカの良いところを教えていきたい」と2人は顔を見合わせ、温かいまなざしをわが子に向けた。
(澤野香織)
新生活に戸惑いと共に楽しみ
ヒル・ジャスミンさん(9)、ヒル・真美さん(37)
米国のこんにちは Hello(ハロー)

ヒル・ジャスミンさんが米国から来日したのは今年1月。遅れて来日した米国籍の父より一足先に、日本国籍の母と2人の弟妹とともに4人で糸島市福吉での生活をスタートした。

生後3カ月から米国で生活していたジャスミンさんは、来日後の学校生活について「給食がおいしい!ココア揚げパンが一番好き」と滑らかな日本語で話す。一方で、学校で苦手なのは運動会に向けたダンスで「同じ服で同じ動きをする」こと。休日の過ごし方にも学校からのルールがあったり、知らない人にじっと見られたりなど、これまでの経験とは異なる文化や価値観に戸惑いもある。それでも、放課後は近所の同級生と近くの公園で遊び、「絵を描くのが好き!アーティストになるのが夢」と話すなど、今を楽しんで暮らしている。
母の真美(まさみ)さんは、日本帰国時にベビーカーに舌打ちされるなど、「子どもへの理解が薄い」と不安を感じることがあった。しかし糸島では、自家製の漬物を差し入れてくれた地域の人は「子どもには辛いかも」と気遣ってくれた。小学校では個別サポート職員の配置や、英語での学習など多様な子どもへの対応があり「子どもは救われている」と感じた。

暮らしの中で感じる「違い」に、戸惑いと共に楽しみや良い面を見つけているヒル一家。6月に来日した父との新生活が始まっている。
(南明日香)
日本語学ぶ場のお姉さん先生
相馬佳音さん(15)
中国のこんにちは 你好(ニーハオ)

中国出身の佳音さんは、両親の仕事の関係で、幼い頃から日本と中国を行き来しながら育った。現在は波多江校区に父親の裕さんと2人暮らしで、家庭では中国語と日本語が行き交う。

母親と弟、友人たちが暮らす中国を離れ、日本で生活する中で「人とのつながりが少し物足りなく感じることもあります」と佳音さん。一方で、「社会のルールを守って生活することが習慣になりました。勉強も自分のペースで進められますし、日本のアニメは日本語の勉強になります」と日本の習慣や文化に心地良さも感じている。
月に一度、前原コミュニティセンターで行われている「いとしま日本語こどもひろば」は、そんな佳音さんにとって大切な場所。外国にルーツを持つ子どもたちが集まり、ゲームや勉強を通じて交流する場で、佳音さんは運営にも携わっている。「日本に来て緊張している子に安心してほしい。楽しいことも辛いことも話せるお姉さんのような存在でいたい」と語り、やりがいや達成感を感じているという。

「糸島にはたくさんの外国人がいるので、困っている人がいたらぜひ声をかけてほしい」と話す佳音さん。将来は中国に戻るかもしれないと話すが、「いつか中国の友達に糸島のこのきれいな自然を見せたいな」と目を細めた。
(柳詰紘子)
「いつか自分も助ける側に」
ジエック・カイン・フイさん(24)
ベトナムのこんにちは Xin chào(シン・チャオ)

福岡市中央区のマンション建設現場。タブレット端末を片手に、建設資材の管理や本社への進捗(しんちょく)報告をしているのは、ベトナム人のフイさんだ。休憩時間には日本語で現場の職人と明るく談笑する。
ベトナムの大学で建築を専攻し「日本の建築の耐震構造は素晴らしい」とその技術力にほれ込んだ。2023年に株式会社へいせい(本社・糸島市)のインターンとして来日し、翌年大学を卒業して、同社の正社員となった。
「日本文化を深く理解したい」と、休日には日本語の勉強をしたり、同僚と太宰府など日本文化を感じる場所へ出かけたりすることも多い。前原山笠の舁(か)き手にも意欲的だ。一方で、食卓はベトナムの文化を大切にしている。毎日ベトナムの調味料や食材で、豚丼や春巻きなどのベトナム料理を作る。旧正月前には家族が集まり、みんなでおしゃべりしながらバインチュンというちまきを作るのが楽しみだという。

「日本の人はみんな優しい」と何度も話すフイさん。困った時は会社や周囲の人が助けてくれた。市役所の人は知らなかった支援情報を教えてくれた上に、手続きも手伝ってくれた。自分も助ける側になりたい、という思いを抱き、フイさんは「いつか日本で働く外国人の手助けに取り組みたい」と語った。やや照れたような面持ちだったが、日本と外国人をつなぐ役目への確かな意志が宿っていた。

(尾崎恭子)