野見山暁治さんしのぶ ー早良美術館るうゑ館長 東 義人ー
6月26日、テレビと新聞朝刊で文化勲章受章の画家、野見山暁治さんの訃報に接したとき、「遅かった」と残念でたまらない気持ちになった。お詫(わ)びもお礼もしないままの別れが悔しくてならなかった。
ことしの寒中見舞いに手書きで「脚が不自由になり、糸島で棲息、野見山」とあったのに会いに行けなかったのだ。
野見山さんは洋画家のみならず、文章の名手として知られるエッセイスト、また、お話や座談はやさしく心温まるものがあった。そして詩人でもあった。
「カーテンを あけたら しまが みえた/どこから きたの?/とおい そらから おりて きたの?/うみの そこから うかんで きたの?/それとも ながれて きたの?/あっ くもだー」
これは「しま」と題された、文・絵とも野見山さん作の絵本(光村教育図書刊)で、しまとは唐津湾に浮かぶ姫島(糸島市)であることは描かれた絵で分かる。
志摩船越に構え、主に夏場に過ごしていたアトリエについて、野見山さんの「アトリエ日記」から引用する。
「久し振り唐津湾ぞいのアトリエに行く。この海っぱたにアトリエを建てたのは、もう三十年くらい前のことだ。ぼくにとっては東京の雑用を避けて、引き籠れる空間であり、カミさんにとっては、福岡での仕事を離れて週末を過す憩いの棲家でもあった」(後略 2003年9月30日の項より)
野見山さんと初めてお会いして話したのは50年ほど前。当時、野見山さんは東京芸術大学教授で53歳。その後、東京や、北九州市立美術館、福岡では主に福岡市中央区のギャラリーおいしでお目にかかっていた。
初めて船越のアトリエをお訪ねしたのは99年12月の早良美術館るうゑで開催した「野見山暁治・お面と版画とドローイング展」の準備のとき。招かれて海辺のバーベキューパーティにお邪魔したことも。野見山さんは参加者みんなに公平にやさしく語りかけられた。海が大好きな野見山さんはシュノーケルをつけて海中に潜られてたのしまれることも。パーティの最中、波打ち際を歩きつつ夕日が姫島のむこうに沈む光景は美しかった。
「愛する人といる瞬間が長く続くことを願うのが平和」という野見山さん。戦時兵役を体験し、多くの画学生を亡くし、戦後二度の結婚をしたが、最愛の夫人を二人とも病気で喪(うしな)った。その生涯を振り返り、野見山さんにとっての平和とは何だったのか、胸の奥で受け止め、野見山さんの作品に向き合うと、この瞬間を平穏に過ごせていることに深い感謝の念が湧いてくる。
糸島のアトリエは、野見山さんが絵筆を通し、鑑賞する人に元気と勇気を与え、平和をはぐくんでいった遺産といえよう。
(福岡市早良区石釜)