眼の男 大杉栄のこと
「私達はいつの日死に別れるかしれない、と考える時に、私は心が冷たく凍るような気がします」=1920(大正9)年2月29日書簡。女性解放運動家で文筆家の伊藤野枝がそうつづった相手。その相手とは、ギョロリとした大きな眼、眼光の鋭さから「眼の男」と呼ばれ、野枝の生涯で最後の夫、同志となった思想家・アナキストの大杉栄(さかえ)=1885(明治18)年1月17日-1923(大正12)年9月16日=です。
二人の初めての出会いは、1914(大正3)年のこと。大杉の先輩格の社会運動家、渡辺政太郎からの紹介で、大杉が当時、野枝の夫だった辻潤宅へ訪れたことからでした。それ以前、大杉は野枝の『婦人解放の悲劇』の批評を「近代思想」(第二巻第八号)に書き、その才能について絶賛したばかりでした。大杉は野枝のことを「眉の少し濃い、眼の大きくはないが、やさしさうな、しかし智的なのが、其の始終莞爾々々(にこにこ)しながら綺麗な白い歯を見せてゐる口もとの、あどけなさと共に、殊に目に立つて見えた」そうです。
心を惹(ひ)かれながらも、大杉は野枝のことを「僕の唯一の本当の女友」とし、「決して彼女に恋をしてはならぬ」と思っていました。しかし、やがて大杉は野枝に対して恋愛感情を持つようになります。何よりこの二人を強く結びつけたものは、野枝が辻とは共有できなかった「谷中村鉱毒問題」でした。
1916年2月、二人は恋愛関係となります。野枝は、踏み出した大杉との恋愛に随分悩んでいたようです。この時期、小説家野上彌生子のもとへ度々相談に行っています。同年11月9日に起こった「日蔭茶屋事件」を経て、世間や同志の非難を浴びながらも結ばれた二人には、五人の子どもに恵まれました。子煩悩だった大杉は、率先しておしめを洗ったり、子ども達と遊んだりしていたそうです。しかし、世間で大杉は「危険人物」として警戒されていました。この今宿へ野枝夫妻が帰省した際には、その動向を見張るため、実家近くに派出所を移転するほどでした。しかし、大杉は気にもせず近所を散歩し、子ども達を集め遊んだりしていたそうです。
友人の社会主義者、山川均によれば、大杉は「遠目に見ている者からは怖がられ、近づいた人から親しまれた人」だったそうです。大杉と「死」によるそれぞれの別離を恐れた野枝。
しかし、野枝はその大杉とともに非業の死を遂げてしまいます。それは未曾有の関東大震災が起き、無残に崩れ落ちた大都市の姿がまだ生々しく残っている頃のことでした。
(福岡市総合図書館文学・映像課 特別資料専門員 神谷優子)(文中敬称略)=毎月1回掲載
●参考 ▽大杉栄「死灰の中から」(1919)▽井出文子・堀切利高編「定本伊藤野枝全集」学藝書林(2000)▽大杉豊解説『新編大杉栄追想』土曜社(2013)▽大杉豊編・解説『伊藤野枝の手紙』土曜社(2019)▽冨板敦『大杉栄年譜』ぱる出版(2022)