伊藤野枝と糸島➑女性解放運動家 没後100年

響く波音 — 野枝、未来へ

 あれから長い刻(とき)がすぎました。女性解放運動家で文筆家の伊藤野枝夫妻の遺児たち、眞子、幸子、笑子、留意子、榮(1924年8月15日没)はそれぞれの人生を懸命に生き抜きました。特に四女の留意子(ルイ)は、晩年社会運動に身を尽くしました。

 今年2023年9月、野枝、大杉栄、おいの橘宗一の没後百年を迎え、ゆかりの地であるこの福岡をはじめ、静岡、東京などで野枝たちを偲(しの)び、その生涯を考え作品を読み直す動きがみられました。また、今宿の山中にある野枝たちの墓石には、多くの人々が訪れたといいます。皆それぞれが、野枝たちのことを思った…。そんな一年だったと思います。

 今、もし野枝が生きていたら、このことをどのように思うのでしょうか。生前、野枝の作品や活動は、社会から十分に認められていたとはいえなかったでしょう。幼少期から、いつも身の置き所がない。そのような自分の境遇を思ったとき、ふと、多くの女性たちが抱える問題に気がついたのでしょう。女性に降りかかる社会からの不条理。それに対する怒りや悲しみ。それが野枝の「書く」原動力でした。自分の「内部生活の断片」をさらけ出して書いた作品は、物議をかもし、また、世間からは非難されることとなりました。しかし、野枝は書き続けました。「嘘(うそ)」をつかずに書きました。それは、すべて「後から来る人たち」のためだったのです。

 野枝が出会った人々。教師たちや「青鞜」を主宰した平塚らいてうは、その文才を認め、困窮する野枝に、自由な道へ行けるようにと、そっと手を差し伸べました。そして、運命の男性たち。もと上野高等女学校の英語教師で夫だった辻潤は、野枝に教育を施し、女流文芸雑誌「青鞜」への道を開きました。また、生涯で最後の同志であり伴侶であった大杉栄も、なんとか野枝を世に出そうと、ともに書籍や雑誌をつくりました。野枝は決して一人ではなかったのです。不遇な境遇の中、野枝が持ち前の強い意志で困難を切り開いた先には、叔父代準介をはじめ多くの支える人たちがいたのです。

 野枝たちが非業の死をとげたあと、同志であった近藤憲二は、僅(わず)かな期間で『大杉栄全集』を刊行しました。全十冊のうち、最後の一冊は『伊藤野枝全集』でした。そして、この全集が、のちの多くの研究者や作家たち、読者の手にわたり、没後百年の今日まで作品が読み継がれ、野枝の考えたこと、目指したものを伝えています。

 さらに次の百年まで。野枝がどう読まれ、受けとめられていくのでしょうか。野枝、どうか光のさす方へ。私はそう願います。野枝が愛した今宿の海。白い砂浜に打ち寄せる波の音は今日も穏やかに、いつまでもいつまでも鳴り響いています。
 =おわり

野枝が愛した今宿の海。穏やかに波音が響いている

(福岡市総合図書館文学・映像課 特別資料専門員 神谷優子)(文中敬称略)
 ●参考▽井手文子・堀切利高編『定本伊藤野枝全集』学藝書林(2000)

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この記事を書いた人

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