【糸島市】いとしま伝説の時代

近世から近代へ【筒井原の小倉塚】

 国中が、倒幕か佐幕(幕府側)かで揺れていた幕末期の慶応二(1866)年一月十日の夕暮れ、前原を西に過ぎた筒井原にある旅人宿、千福屋の店先に、駕籠(かご)から降り立った三人連れがありました。小倉藩士で横江幾之進という武士と、その従者です。幾之進は、明日も早いからと従者二人を先に休ませると、机の前で正座したまま、何やら煩悶(はんもん)しているようでした。

 当時、倒幕派の急先鋒であった長州藩は、小倉藩とは海一つ隔てた隣国でした。その長州藩が、外国製の新兵器などを備えて九州に攻め込んでくるというので、佐幕派の小倉藩は、九州の諸藩をまとめて、これを迎え撃ちたい心持ちでしたが、すでに幕府の威信も薄らぎ、気がつけば孤立したような有様でした。

 小倉藩は、こうした状況を打開すべく、福岡藩と唐津藩が幕軍に加わるよう説得するため、若い幾之進を差し向けたのです。しかし、福岡藩の日和見の重役たちは、小倉藩や幾之進たちを「時代を知らぬ大馬鹿者」と嘲(あざけ)り笑う始末。もはや福岡藩に留まっていても侮辱され生き恥を晒(さら)すばかりと、福岡城を抜け出し、唐津に向かったのでした。

 翌朝、幾之進は宿の付近の松林の中で、自害した姿で発見されました。その懐中からは、血に染まった数通の遺書が見つかり、その中には従者に宛てて、この遺書を唐津藩主に届けてほしい旨の遺言がありました。

 その数日後、唐津藩から小倉支援に向かう九十八名の武士の姿がありました。言うまでもなく、幾之進の命を賭した遺書に感動した唐津藩士たちで、途中、真新しい墓標に手を合わせながらも、小倉へと出陣していったのです。

 それからしばらく経った七月の炎暑の中を、今度は東から西へ敗走していく唐津藩士の姿がありました。

 このとき糸島沿道の人々は、一杯の水、一碗の飯を惜しまず、特に事情を知る前原や筒井原の人々は、我がことのようにこの敗戦を悲しみ、唐津藩士たちを手厚くもてなしました。幾之進が自刃した所には土が盛られ、小倉塚と呼ばれて、香の煙が絶えなかったそうです。

 (志摩歴史資料館)

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