激動の時代を駆け抜け
女性解放運動家、また文筆家でも知られる伊藤野枝(1895-1923)は、豊かな自然と海に恵まれた糸島郡今宿村(現福岡市西区)の出身です。
実家は、代々海産物問屋や回漕業を営む裕福な家でした。しかし、野枝の生まれた頃には、家業不振となり、野枝は幼い頃から両親のもとではなく、親戚のもとで養育されるという寂しい境遇をおくりました。
やがて、成長した野枝は、今宿尋常小学校、周船寺高等小学校などを経て、実業家で叔父の代準介を頼り、進学のため上京します。上京後、わずか数カ月で上野高等女学校4年に編入学を果たした野枝は、自由な校風のもと、校内新聞を発行するなど、その文才を発揮し、めきめきと実力をつけていきます。
女学校卒業後は、在学中から決められた周船寺村の青年との結婚のため、いったんは故郷へ戻るのですが、数日でその結婚を拒否し、女学校時代の英語教師、辻潤を頼り再び上京します。辻と同棲(どうせい)をはじめた野枝は、雑誌「青鞜」を主宰する平塚らいてうに手紙を送り訪ねます。やがて青鞜社の社員となった野枝は、詩「東の渚(なぎさ)」を皮切りに作品や評論など、次々に発表していきます。
1915(大正4)年、らいてうに代わり青鞜の二代目編集長となった野枝は、女性に関わるさまざまな問題について考え取り組んでいきます。
辻との間には、長男一(まこと)と次男流二に恵まれますが、徐々に辻との関係は破綻し、思想家大杉栄と恋に落ちるのです。
辻との生活に別れを告げた野枝は大杉と内縁関係を結び、共に文筆活動や雑誌を創刊していきます。大杉との間には、いわゆる「日蔭茶屋事件」で2人の仲が世間から非難をあびたことを受け命名された長女魔子(後に改名・眞子)、その名を外国の思想家たちからとった次女エマ(同・幸子)、三女エマ(同・笑子)、四女ルイズ(同・留意子)、長男ネストル(同・榮)の5人の子どもたちに恵まれます。
大杉とともに講演や文筆活動、子育てに奮闘する野枝でしたが、1923(大正12)年9月1日、未曾有の関東大震災が起こります。被災後、「暴動が起きる」「井戸に毒をいれられる」など、あらゆる流言飛語が飛び交う混乱のさなかの同月16日、憲兵大尉甘粕正彦らによって、拘束され、即日、おいの橘宗一(むねかず)とともにその生を摘み取られるのです。
志なかば、わずか28年間の短い野枝の人生でした。今年2023年は野枝の没後百年を迎えます。明治・大正という激動の時代に、自分の意志で、その人生を切り拓こうとした野枝の、一人の女性として精いっぱい生きた命の輝きと勁(つよ)さをこれからご紹介していきたいと思っています。
(福岡市総合図書館文学・映像課 特別資料専門員 神谷優子)
(文中敬称略) =毎月1回掲載
●参考 岩崎呉夫「炎の女 伊藤野枝伝」七曜社(1963)▽井出文子・掘切利高編「定本伊藤野枝全集」学藝書林(2000)
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この連載は2023年4月から同11月にかけ、糸島新聞で計8回、掲載されたものです。