【糸島市】伊藤野枝と糸島❷ 女性解放運動家 没後100年

級友が語る高等小時代

伊藤野枝の故郷、今宿の海岸。美しい砂浜が続いている

 女性解放運動家で文筆家の伊藤野枝には多くの著作がありますが、その中で糸島郡今宿村(現福岡市西区)や故郷の海を題材に書いた作品があります。詩「東の渚(なぎさ)」や、雑誌第三次「労働運動」に掲載された「無政府の事実」などです。

 これらの作品では、美しい今宿の海や砂浜の様子が描かれています。特に、野枝は海が好きだったようです。雑誌「青鞜(せいとう)」に発表した「日記より」には、幼い頃、子守の女性に背負われて渚を行ったり来たりした今宿での原風景が描かれています。楽しいときもつらいときもいつも海をみていたのでしょう。

 幼い頃から読み書きができた野枝は「ノーちゃん」と呼ばれ、地元の人たちから手紙の代筆を頼まれるなどかわいがられていたようです。

 ところで、野枝はどんな生徒だったのでしょうか。当時の同級生たちによる回想が、糸島新聞に掲載されています。

 記事によれば、周船寺高等小学校時代の野枝は授業中、先生の話は聞かず、いつも机の下に隠した雑誌を読みながら、当時のおやつ、りんかけ豆(砂糖がけの煎(い)り豆)をポリポリ食べていたそうです。先生にみつかり、叱られることを心配した級友が注意すると、野枝はその豆を級友の口に押し込み、知らぬ顔をしたそうです。

 先生の話を聞かなくても、質問にはすらすらと答えられるほど勉強ができた野枝は、他の級友たちとあまり遊ばず、一人でいることが多かったといわれています。

 ところが、ある日の休み時間、急に不安で寂しくなったのでしょう。涙をためた野枝が級友たちに「りんかけ豆のこと、先生に言わないで!」と訴えたこともあったそうです。
 鏡とりて寂しやひとり
 今日もまた思いにうみて
 顔写しみる
 この時期、このような歌を詠んでいます。
 実家が貧しく、幼い頃から、親戚の家を転々とする落ち着かない生活を続けていた野枝の、深い孤独や不安が伝わってきます。
 やがて、野枝は「勉強したい」と強く思うようになります。東京にいる叔父の代(だい)準介に次のような内容の手紙を書いたといわれています。
 「私はもっと自分を試してみたいのです。もっともっと勉強をしてみたいのです。できれば学問で身を立てたいとも思っています。(中略)どうぞ私を上野高女にやってください。ご恩は必ずお返し致しますので」
 この上野高等女学校には、代の娘、野枝のいとこの千代子が在籍していました。三日とおかず、野枝は何度も代に手紙を送り続け、ようやくその願いはかなえられることになります。

 1909(明治42)年の年末、編入準備のため上京した野枝は、昼夜を問わず勉強を続け、見事合格を勝ち取ります。
 この今宿から東京へ。そこには、のちに野枝の生き方を決定づける多くの人たちが待っていました。

(福岡市総合図書館文学・映像課 特別資料専門員 神谷優子)
(文中敬省略)=毎月1回掲載
 参考 岩崎呉夫「炎の女 伊藤野枝伝」七曜社▽糸島新聞▽矢野寛治「伊藤野枝と代準介」弦書房

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この記事を書いた人

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