雷山空襲から80年
太平洋戦争末期、米軍機の爆撃により、糸島市雷山地区(旧雷山村)で8人の命が奪われた雷山空襲から19日で80年となった。戦争を二度と繰り返さないため、「火の雨」が降り注ぎ、炎が村を包み込んだ惨禍を、決して風化させてはならない。ただ、あの日のことを直接語れる人は年々減り続け、悲惨な体験を将来にどう語り継いでいくのか、大きな課題になっている。こうした中、空襲の爪痕をたどり、平和の尊さを次世代に伝えようとする人、そして今もなお「証言を残さらねばならない」と静かに語り始める人がいる。雷山空襲の記憶をいつまでも引き継いでほしいとの願いを込め、平和の尊さを訴えかけている。

現在は解体され、地域内で保管されている 稲冨聡さん提供
今と変わらず田園が広がる旧雷山村。太平洋戦争末期の1945年6月19日、月の明るい夜。福岡大空襲と同じ日、そののどかな地に突如として米軍のB29爆撃機が飛来し、焼夷(しょうい)弾を投下。住宅20数戸や学校など多くの建物が被害を受け、8人の命が失われた。当時完成したばかりの大ため池に月の光が当たり、軍事施設と間違えられたと伝わるが、定かではない。

この惨劇を伝え残そうと語り継ぐ人たちがいる。その一人、糸島市香力(旧雷山村)に住む大原輯一(しゅういち)さん(80)。雷山空襲の語り手として、市内の小中学校などで被災状況を話し、平和の大切さを訴えている。
大原さんは、生後6カ月で空襲に遭った。母に抱かれて裏山の防空壕(ごう)に逃げて助かったものの、当時の記憶はない。戦後の長い間、地域で空襲について話す人は少なかった。「皆、つらい記憶を語ることを避けていたのかもしれません」と振り返る。
転機は14年前。香力区長として子ども会の活動に携わる中で、雷山空襲について話すよう依頼された。知識もないまま語ることはできないと考えた大原さんは、空襲で家族4人を失った被災者の証言を聞いた。
焼夷弾は、被災者の家を直撃。10歳だった被災者は、爆風で飛ばされた畳の下敷きになった。「苦しいよー」。声を聞きつけた二つ上の兄が懸命に助け出した。壁一枚隔てて、父母と弟妹が寝ていた部屋は猛火に包まれていた。8歳の弟は炎の中でもがいていたが、助けに入ることはできなかった。父親は自力ではい出してきたが、足にけがを負い、隣人に頼み包丁で足を切り落とさせた。そのまま病院に運ばれたが、途中で息を引き取った。
「ここ雷山で、あってはならないことが起こっていた」。大原さんは、怖くて悲しくて、涙があふれた。
「空襲のことをもっと知りたい」。そう強く思い、地元有志らが雷山空襲フィールドワークの冊子を作る縁で、空襲の実態調査に乗り出した。校区内にある約40軒を訪ね、住民から聞き取り調査やアンケートを行った。長く胸に秘められていた記憶が少しずつ語られた。「皆、懸命に記憶をたどってくれた。半日も話が止まらなかったり、何度も訪れるうちに『今初めて打ち明けるけれど…』と話し始めたりする女性もいました」。証言をつなぐことで、頭の中に空襲の光景が浮かんできた。

聞き取った話をもとに、大原さんは地図を自作し、被災状況をまとめた。平和授業などで、被災者はどこに逃げたのか、どこの家屋や小屋が焼けたのかなどを、地図を使って細やかに説明する。真剣なまなざしで話を聞く子どもたちに「今日知ったことを家族で話して、雷山空襲についてみんなで考えてほしい」と訴える。
当時を知る人が減っていく中、近年は地域全体で、戦争の記憶を未来につなごうという動きが強まっている。地元の有志を中心に、「雷山空襲を語り継ぐ会」「雷山空襲遺跡保存委員会」が発足。糸島市も戦後80年に合わせて今月、雷山コミュニティセンター敷地内に空襲の説明看板を設置する。

「語り継ぐ会」の吉丸泰生会長(82)は「実際に雷山のあちこちに残っている痕跡を目にすれば、空襲の重みを肌で感じるはず」と話し、記憶を風化させないためにも、今後多くの人が足を運んでくれることを願う。

大原さんは言う。「今の平和は、戦争を経験した人たちの犠牲の上にある。戦争は本当に愚かなこと。二度と起こしてはいけない。だからこそ、私は語り継ぎたい」。平和を願う声は、次世代へと受け継がれている。
(糸島新聞社ホームページに地域情報満載)